沿革
History
大島造船所建造の歴史と沿革。
昭和48年の設立以来、大島の地域と共に歩んできました。


大島造船所建造の歴史
大島造船所のある西海市大島町は、九州本土より約1km沖に位置し、昭和初期より、炭鉱の島として発展をしました。しかし、昭和45年の炭鉱閉山に伴い、長崎県と大島町が企業誘致を開始します。一方、大島造船所の親会社であった大阪造船所は、世界的な船型大型化に伴い、企業基盤確立と将来の発展に備え、大型船需要に対応できる、効率的な設備を有する大規模な新鋭造船所建造に向けた適地を探していました。この両者の思惑が合致し、大島造船所が生まれました。
設立
昭和48年2月7日
(加工開始/昭和49年6月1日)
大島への進出理由
- 長崎県ならびに大島町の熱烈な誘致と全面的な協力・支援があったこと。
- 造船立県で県民の造船に対する理解が深く、関連企業も発達していたこと。
- 炭鉱時代の既存の埋立地(現敷地の1/2)および電力設備がそのまま使用できたこと。
- 地理的条件が造船業に適していたこと(温暖で水深も20m近い天然の良港)。
昭和中期(1970)〜
昭和10年
三井松島炭坑大島鉱業所開鉱
炭坑の開鉱により、半農、半漁の寒村だった当時の黒瀬村(現西海市大島町黒瀬地区)が黒ダイヤの島として発展の緒についた。
昭和24年
町制の施行
戦後復興の担い手となった炭坑は、年を追って活況を呈し、島の人口は、14,000人に達し、町制を施行し大島町となった。
昭和34年
炭坑最盛期に最高人口を記録
炭坑の好況を反映し、島の人口は19,453人に達した。(南に隣接する崎戸町(三菱鉱業)も、人口25,592人に)しかし、昭和30年代後半に入り、石油の台頭によって石炭は、斜陽化の影がみえはじめた。
昭和45年1月
大阪造船所による新造船所建設表明
当時大阪で事業を営んでいた大阪造船所の2代目社長・南景樹は、大阪造船所の企業基盤確立と将来の発展に備え、大型船需要に対応できる、効率的な設備を有する大規模な造船所の建設を表明した。
昭和45年5月
炭坑閉山
世界的に起きた石炭から石油へのエネルギー転換により、一挙に炭坑が閉山し、過疎の町になった。当時、大島鉱業所は閉山指定されていなかっただけに、突然の閉山は、町民にとって青天の霹靂であった。
昭和45年(閉山直後)・・・人口11,197人
昭和47年・・・・・・・・人口5,942人
※5,942人は戸籍上の人口であり、壮・青年は、県外に出稼ぎに行っていたため、実際の人口は老人と子供の4,000人程度であった。
大島町 最盛期 19,453人 ⇒ 5,094人(令和元年4月末現在)
崎戸町 最盛期 25,592人 ⇒ 1,342人(令和元年4月末現在)
昭和45年10月
企業誘致活動開始
長崎県と大島町が連携し企業誘致活動を開始。
昭和46年
大阪造船所への誘致開始
長崎県と大島町が大阪造船所への誘致を開始。同年、大阪造船所より調査団を大島に派遣。
昭和47年
新造船建設認可
大阪造船所が5月に運輸省へ「造船施設新設許可申請書」を提出し、同年7月に認可される。
昭和47年12月
大島現地で鍬入れ式
鍬入れ式前夜、及び当日は前途多難を思わせる大嵐であったと伝えられる。
昭和48年2月7日
株式会社大島造船所設立
(株)大阪造船所、住友重機械工業(株)、住友商事(株)3社の出資により設立。本店を大島町に置く。創立当初は、基本方針としてタンカーの建造を目的とした物であった。
創業者・南景樹は、「無限の可能性を秘めた何も建ってない敷地に、設備を建設することは、無限の可能性を縮小していくことである。しかし、そうしながらもなお、できる限りの可能性を残していく」として、工場建設を担当する建設本部に下記の方針を出した。
- 敷地は広く取れ。余剰スペースは敷地の真ん中に造れ。
- ドックサイズは大きく。そしてドックサイドと渠頭に十分なスペースを取れ。
- 建屋は、独立分離方式で可能な限り高くせよ。
その結果、
- 大阪造船所の6倍の広い敷地を確保した。レイアウトは、将来の拡張の余地を敷地中央部に確保し、建造工程の流れをシンプルにした。
- ドックは535m×80mの大型ドックになった。そしてドックサイドはもとより渠頭部にも広大な総組ヤードを確保した。
- 建屋はタンカーだけではなく、どのような船種にも対応できるように独立分離方式を採用した。また将来の建造方法の変化を考慮し、高い建屋にした。
これらが、後世に工場拡張・ばら積み貨物船(バルクキャリア)建設最適化に向けた発展の基礎を与えた。
昭和48年10月
オイルショック起こる
建設資材の入手に東奔西走する。
昭和49年6月1日
大島造船所加工開始
かくして、炭坑の町は、造船の町として再生した。
昭和50年2月
第一番船進水式
全社員がドック横に整列して万歳三唱した。
※命名引渡式の歓迎行事の特色=町民参加の歓迎。老人会が「孫の手を引いて行くよ」と言ってくれたことが始まりで現在では、保育園児の鼓笛隊なども加わり、大島ならではの特色ある歓迎行事に発展し、多くの町民参加による命名式、来賓お見送りが行われている。
昭和50年〜
造船不況の顕著化
世界的造船不況の到来により、操業間もなく、タンカーがキャンセル。大島造船所は本格操業に至る前に、操業規模の縮小を余儀なくされる。
昭和53年7月
労働諸条件切り下げ
賃金カット、年間所定労働時間の延長、工場給食の中断などを実施。
昭和55年
海運造船合理化審議会(海造審)の安定基本計画による第一次設備処理
造船不況対策として、運輸省より設備削減が告示され、業界全体で設備の共同処理による供給量削減が行われる。大島造船所、大阪造船所、住友重機械工業、林兼造船の4社で共同処理の調整を行った結果、(株)林兼造船が生産設備の閉鎖を行い、その人員を大島造船所で受け入れた。
昭和56年6月
創業者 南 景樹 会長就任、土井 正三 社長に就任
昭和56年7月
労働条件復元
昭和57年12月
青雲学舎(学習塾)開校
造船所子弟並びに町民子弟も含めた学力向上のため、青雲学舎を開校(平成5年閉校)。
昭和58年
大島アイランドホテル長崎設立
地域振興の目的で設立。造船所の迎賓館としての役割と共に、離島の文化、リゾート基地としての役割を果たす。
昭和60年4月
長崎大島醸造(株)設立
産業振興を目的に、町、県内酒造メ-カ-の参加を得て、日本で唯一の第三セクタ-方式の焼酎会社。
昭和60年9月
応援派遣開始される
不況期の人員整理を回避するため自動車産業をはじめとする社外に「応援派遣」を実施。派遣者は慣れない仕事に苦労しながら、交代で3年7ヶ月にわたる応援派遣に耐えた。副次的に自動車産業のスピードを身につける機会になった。
※日本電装・日野自動車・鈴木自動車・ダイハツなど14社に3年7カ月におよび、延べ6,459人。社員の約6割が派遣を経験、1人1~6回、期間は6~12カ月。
昭和62年
労働条件切り下げ
受注が見通せず、教育訓練の実施、賃金カット、一時金年間1ヶ月、時間外割増率切り下げなどを実施。労使で痛みを分かち合った。
昭和62年2月
第100番船命名式
昭和62年12月
大島造船所の経営強化策を内外機関に発表
経営基盤を強化するため、過去の損失を解消し新しい会社を設立する。(株)大島造船所(資本金120億円)を一旦解散し、その事業を継承する新しい(株)大島造船所(資本金60億円)と設備を継承する大阪大島造船不動産(株)(資本金15億円)を設立。また大阪造船所造船事業部の撤退に伴い、その営業の一部を大島造船所に移管。
昭和63年
トマト栽培に着手
島内の未利用地の有効活用、雇用創出の一環として、トマト栽培を開始した。トマトには、つらいスパルタ栽培(水を極端に少なく)を行う事で、野菜というより果実なの糖度(10~13度、普通は4~5度)を持つトマトが育ち、今も大島の名産となっている。
昭和63年
海運造船合理化審議会(海造審)の安定基本計画による第二次設備処
第一次設備処理に続き、供給量削減のため設備廃棄を求められる。同計画に沿って、親会社大阪造船所は自社の造船部門を撤退し、大島造船所を残す苦しく悲しい選択をせまられる。
平成(1990)〜
平成元年2月
労働条件復元
但し、所定労働時間の延長は継続
平成元年6月
南 尚、社長に就任
平成3年3月
労働条件復元
昭和61年4月から続いた労働条件の切り下げ、全てを復元。(所定労働時間2,025時間に復元)
平成3年
「バルクに特化」の大方針を定める
バルクに特化して建造する船を増やすことで、集中効果が生まれ、品質の良い船を安く造ることを目指した。社内にはこの方針に対する賛否もあったが、粘り強く「バルクに特化」にシフトしていった。
『経営理念』『経営方針』を発表
対本土架橋「大島大橋」架橋建設が県事業として採択
平成5年7月
第1回長崎大島トライアスロン大会開催
地域貢献の一環として、特別協賛として、第1回から現在に至るまで開催支援を行っている。毎年数百名が県内外から来島する西海市の一大イベントに育った。
平成6年1月
南社長が年頭の辞で非常事態宣言・・・Z旗の掲揚
1ドル80円を割るという予測の元に、円高対策のため非常事態宣言を発し、Z旗(※)を掲揚した。
※Z旗とは、日露戦争の日本海海戦で連合艦隊旗艦「三笠」のマストに掲げられたZ旗にあやかったもの。心を一つに難局に取り組んでいく覚悟を示す象徴。
平成7年5月
マハティール・マレーシア首相ご来所
マレ-シアの重要な発注先である韓国、その代表格である現代重工業を向こうに回し、受注競争に勝った小さな離島の大島造船所に、マハティ-ル首相は大いに関心を寄せられ、是非大島造船所を見てみたいと、命名引渡式にご夫婦で来島された。大島造船所の経営方針として「地域と共に」があるが、奇しくもこれはマレ-シア企業の経営方針でもあり、マハティ-ル首相は、大島と大島造船所に大変な好意と親近感をもたれた。
平成9年1月
Z旗降納と新シンボル旗掲揚
1月6日の新年互礼会において、全社員注視の中、3年間「非常事態宣言」を発して掲げ続けたZ旗を降納した。(降納したZ旗に全社員が名前を寄書する)
A旗(エースフラッグ)
新しいシンボル旗として、A旗「エース・フラッグ」を掲揚し21世紀への挑戦を誓い合う。
[A旗の意味するところ]
- 錨
地域にどっしりとアンカーをおろし本業発展を願う。 - トマト
真っ赤なトマトが燎原の火の如く大島を覆う姿であり、第二第三の事業の発展と地域社会との共存・共生を目指す。 - パンセ
一人一人の真摯な言動を意味し、慣習に拘泥せずに、明るく、強く、前向きに、軽やかに、何事にも挑戦していく。 - 色
赤は太陽と星、未来と希望。緑は山林と平野、安全と豊穣。青は空と海、夢と宇宙を示す。
平成11年4月
女子社員の採用開始
将来的な女性活躍を見越し、4名の女子技能職社員を採用。現場のトイレ、シャワー等の設備設置を行う。
平成11年11月
大島大橋開通(橋長1095m)『離島から半島に』
平成11年11月11日11時11分11秒、1が12並んだ時間に、大島大橋の開通を祝いテープカットが行われた。橋の開通に伴い、協力産業のフェリーは35年の歴史に幕を閉じた。
平成13年3月
ノルウェーのハラルド五世国王陛下、大島造船所を公式訪問
ハラルド五世国王は、ノルウェー国旗を振る町民の歓迎を受け、大島造船所に到着。南尚社長の案内で組立工場を見学した後、ノルウェーの船会社が発注した貨物船の起工式に出席。ハラルド国王は「クリーンでパーフェクトな工場である」と感想を述べられた。
平成15年7月
九州大学大学院工学研究院と包括的な連携推進に関する協定締結を行う
平成17年6月
南 尚 最高代表取締役に就任、後任社長に中川 齊(ただし)就任
平成18年
トヨタ自動車生産調査部への研修派遣が始まる
派遣者はトヨタ生産方式を学び、自動車業界のベストプラクティスを造船業界へ取り入れる。
平成18年6月
ダイゾーテック設立
国内でのエンジニア減少への対策として、優秀な設計人員確保のため、理工系大卒人材を求めて、ベトナムのハノイにダイゾーテックを設立。現在では100名以上が大島造船所グループの一員として活躍している。
平成19年10月
未竣工地の埋立完工、第3号岸壁竣工
創業時に将来の拡張発展のために残されていた未竣工地が埋め立てられ、多数隻建造の強化に向けた基盤が整備される。
平成20年6月
1200トンゴライアスクレーン1号基竣工
300トン×2基体制に大型1200トンクレーンが加わり、1ドックにゴライアスクレーン3基体制となる。
平成20年9月
Z旗の再掲揚
資源価格の高騰による危機的状況に対し、Z旗を再び掲揚し、省力・省エネ・省資源の「省三運動」を展開していくことになる。
平成21年
東京大学、船社他と風を利用した帆主機従商船Wind Challenger Projectを開始
平成21年10月
女性社員の活躍推進について長崎労働局長より表彰を受ける
平成21年6月
南 浩史 社長に就任
平成21年7月
株式会社相浦機械創業
佐世保の船舶デッキクレーン企業の倒産を受け、事業を継承。海運・造船10社の資本参加も受け、地域や海運業界への貢献に向け、大島造船所のものづくりを注入し、自立経営を行う。
平成22年
「ながさき子育て支援表彰」を長崎県知事より受賞
女子社員が安心して働けるように、子育てと仕事の両立支援策への積極的取り組みに対する表彰を受ける。
平成22年8月
ノルウェーに大島欧州事務所開設
DNV(現DNVGL)との共同研究促進、営業・設計活動支援を開始する。
平成22年1月
500隻目の引渡を達成
平成23年4月
大島大橋通行料無料化
平成23年8月
大島アイランドホテル閉館
平成25年4月
大島造船所の迎賓館オリーブベイホテル開業
大島アイランドホテル跡地に、新たな迎賓館として開館。設計は世界的な建築家の隈研吾。
平成25年6月
シップ・オブ・ザ・イヤー2012受賞
平成24年7月に引き渡した第10700番船が 「シップ・オブ・ザ・イヤー2012」を獲得。船底からの気泡で船体と海水間の摩擦を減らす画期的な技術を適用した第1船。
平成26年1月
大島最先端船舶技術センター開設
造船所構内に水流中で実験を行える回流水槽を設置し、省エネ船型・省エネ付加物等開発のスピードアップを図る。
平成26年10月
智翔館青雲学舎開校
地理的なハンディを克服するため、島内子弟の教育支援を目的とし、青雲学舎を再度開校。大画面TVを利用したライブ授業・録画授業で、大都市と同じ教育レベルを実現。将来的には英語教育にも力を入れ、グローバル人材を大島から排出することを目指す。
平成26年12月
1200トンゴライアスクレーン2号基竣工
1ドックに1200トン×2基、300トン×2基の4基体制となる。
平成27年1月
南 宣之 社長に就任
平成27年10月
700隻目の引渡を達成
平成30年6月
800隻目の引渡を達成
平成30年9月
平賀 英一 社長に就任
令和元年6月
e-Oshima完工
CO2などの温室効果ガスやNOx、SOx等の大気汚染物質のゼロエミッションを目指し、大容量リチウムイオンバッテリーを搭載した完全バッテリー駆動船「E/V e-Oshima」を開発。なお本船は、公益財団法人日本デザイン振興会が主催する、グッドデザイン賞2019を受賞。
令和2年7月
シップ・オブ・ザ・イヤー2019受賞
令和元年6月に完工した「E/V e-Oshima」が、日本船舶海洋工学会による「シップ・オブ・ザ・イヤー2019」を受賞。