大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

後手の前半、先手の後半 – 30年の経営の軌跡

後手の前半、先手の後半 - 30年の経営の軌跡

前半15年(昭和48年2月7日~昭和62年12月31日)

創業者南景樹が大島の地を踏んだ32年前の昭和46年、タンカーブームは既に頂点に達していた。それから間もなく、ニクソンショックによる円の変動相場制移行に伴い、日本の製造業を苦しめることになる円高が始まる。
南景樹はその翌年、敢えて、大島への進出を決断している。日本の造船業界では、最後発の新鋭造船所建設であった。
為替レートが固定から変動相場制へ移行するという経済環境激変の中で、先物の受注契約をする造船の新工場建設は大きなリスクであった。
創業した48年には、2月にスミソニアン体制が崩壊して円高が一挙に進み、10月に石油ショックが襲い、タンカーブームのバブルが一挙にはじけた。 大島造船所は、最悪の時に生まれた。しかし、この時を外していれば、後の不況を考えてみた場合、大島造船所の設立はなかっただろう。

49年の操業開始後、間もなくタンカー7隻の大量キャンセルという、造船業にとって絶体絶命の窮地に陥った。せっかく集めた従業員1,804名を795名にまで減らさざるを得なかった。職場には、明日は我が身かという疑心暗鬼が生じ、仕事どころではない。最悪時には、借入金415億円、累積損失244億円を抱え、いつ倒れてもおかしくない状態であった。

日本造船業界の設備削減と操業規制により、56年からの3年間は、船価が急上昇し、合計で3桁の億の利益が出た。この状態がこの後数年続けば、完全復調できると思われたが、そうはいかなかった。業界協調で供給を絞ったが、その間、韓国の造船会社が設備を新設し、建造能力を拡大していた。間もなく供給過剰になり、好況は短期で終わる。ミニブームと言われた。

2度目の不況は、復調しない間にきたので応えた。重病の患者が持ち直し、回復へ向かおうという矢先に病魔がぶり返し、再度悪化するようなものである。根本的な対策しか手は無かった。
時間延長、賃金カットは極限まで実施され、社員の給料は生活保護給付以下と言われた。家族はぎりぎりの生活を強いられた。社員の余剰には応援派遣でしのいだ。社員は応援派遣先で慣れない仕事に苦労したものの、会社は人員整理をしなかった。
このように苦しく堪え忍ぶ状況であったが、社員と会社の間には、相互に信頼感が醸成されていった。

大阪造船所は、自分の身を捨て、唯一残った船台を閉鎖して大島を救った。
株主3社は、120億円の資本金の全額放棄と75億円の新資本金の追加出資により、今までの大島造船所を解散し、新しい大島造船所を作った。

後手の前半、先手の後半 - 30年の経営の軌跡

後半15年(昭和63年1月1日~平成15年2月7日)

昭和63年1月1日、債務の重荷から解放され、身軽になった新生大島丸は、「明るい大島、強い大島」の標語を掲げ、一から出直す覚悟で意気に燃えて出航した。会社の「経営理念」「経営方針」も発表された。大阪造船所時代からの得意船型であったバルクに絞って建造を進めた結果、船価の回復にも恵まれて、平成2年度には当期黒字を達成した。

6年には、株主3社保証付きの再建が完了した。急激な円高が来るとの予想から、6年から8年まで非常事態を宣言し、Z旗を掲揚して、業務改革によるコストダウン運動を実施した。7年には1ドル80円の超円高になったが、事前の対策により、この荒波を乗り越えることができた。
バルクに特化した多数隻連続建造方針のもと、年間17隻の建造を目指した。
設計陣は造りやすい優れた船を開発し、営業が船を取り、資材が材料費を下げ、工作が多数隻連続建造を粛々とこなし、他の部門が協同し、目標を達成した。

10年には、船価の下落が止まらないので、1年間かけて、13年度から15年度までの不況対策を審議した。「全社一丸」、部門の枠を超えた諸対策の効果に加えて、円安基調という幸運にも恵まれ、この危機も乗り切った。
10年に資本金を75億円から15億円の有償減資で60億円とした。
12年には、株主3社の債務保証が無くなり、自立経営に移行した。これまで株主3社の傘の下でぬくぬくと平和を享受してきたが、この日から全て自前でやっていくこととなった。ここで真の再建を果たしたことになる。

前半は2度の不況に翻弄され、沈没しかけた大島丸の15年。後半は頑丈な新造の大島丸が、荒波に揉まれながらも、強かに航海していく15年であった。
前半は守り耐えるばかりであった。
いや守りの経営と言うより、追い詰められて後手後手に回る経営であったと言うべきだろう。勝利など望むべくもなく、死を回避するために敗走に敗走を重ねるような15年であった。楽しみのかけらもなかった。安堵の一時もなかった。

しかし、この苦しい前半の15年の歴史に学んだからこそ、後半の15年は先手先手の経営を心掛けることができたのである。攻撃は最大の防御と、攻めて攻めて攻め抜いた。
前半は苦しい戦いの連続であったが、次のような発展の素地を造った時代でもある。
①広いドックと将来の発展余地を十分過ぎるほど残した工場のレイアウト
②大造会等の社内行事による「全社一丸」を醸成する仕組み
③町民参加の命名引渡式とゲストハウスとしてのアイランドホテルの建設
④人材の確保と応援派遣による戦力温存
⑤設備処理、操業規制に対して、大阪造船所を始め、株主3社・グループ会社による大島の特長を活かすための支援・協力
後半は明確な経営戦略を打ち出し、事前に対策を立て、適材適所に人を得て、それらの素地の上に、思い通りの絵を全社一丸となって描いた時代である。
社員全員は大いなる達成感と、やればできるのだという自信を抱いた。しかし決して驕り昂らず、地道な日々の努力を忘れないように自戒することを誓い合っている。