大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

造船は大島にまかせた!その思いを社歌に込めて – 大島造船所誕生と継承された社歌

造船は大島にまかせた!その思いを社歌に込めて - 大島造船所誕生と継承された社歌

大阪造船所(大造)は企業基盤確立と将来の発展に備えるため、新造船所建設を決意した。運輸省は大手造船会社との資本提携を許可条件として示した。
そこで大造は住友重機械工業(住重)、住友商事(住商)との資本提携を図ろうとしたが、多くの問題があった。大造が過小資本であるため増資によって資金を調達すること、および大造が多岐に亘って展開している事業から造船事業部門を切り離すこと、いずれも時間的に困難であった。

このような事情から大造・住重・住商3社の出資による新会社設立の構想が持ち上がる。 運輸省は造船の新会社には、新設許可を出さないのが原則であったが、5年以内に大造の造船事業部門と一体化するとの念書を入れた。これにより新会社による造船所新設の許可が下りることになった。その念書には、大造と新会社による船台及びドックのスクラップアンドビルドも入っていた。
この新会社が大島造船所(大島)であり、上記3社の出資により昭和48年2月7日に設立される。資本金は3.75億円でスタートし、49年3月末には15億円となる。出資比率は大造50%、住重25%、住商25%であった。

大島は49年6月1日に工場の稼働(加工開始)を始めるが、大造は念書に基づくスクラップアンドビルドにより、3号船台(設備能力1,500総トン、以下トン数表示のみで表す)を48年2月に廃止し、1号船台(21,000総トン)を52年11月に廃止する。

また、造船不況による第1次設備削減(船台基数単位35%削減)で、55年2月に大島・大造・住重・林兼造船(林兼)4社が設備共同処理即ち共同で設備の廃止、交換・融通を行った。これに伴い、大造は唯一残った2号船台が設備能力39,000総トンから27,500総トンになる。
第2次設備削減(船台基数単位20%削減)では、大造は大島を生かすために、その2号船台を62年9月に廃止する。大造は、従業員の行く末、造船の代替事業、社会的信用の保持、従業員の一体感の維持等々、様々な課題と苦悩を抱えつつも、大島に全ての期待をかけて、親が子を思う気持ちで造船事業から撤退する。

大造グループのスクラップアンドビルドによって、大島は誕生した。そして第1次設備削減では4社設備共同処理、さらに第2次設備削減では大造の船台廃止により、大島のドックは設備能力8万総トンのまま無傷で温存されることになる。
大島は元々、大造の造船部門の拡大・発展のために設立されたが、大造はここで造船事業の将来を完全に大島に託すことになったのである。
このように苦労してきた設備能力について、今は自由に会社が設立でき、制約のない建造ができる。今までの苦労は何だったのだろう。しかし、時の流れのその時々の中で各々が精一杯、役割を果たしてきたのだとしみじみ思う。

大島稼働開始後、社員の拠り所となるような社歌制作を検討した時、将来の大造の造船事業との一体化も考え、親会社大造の社歌の精神を受け入れようということになった。そこで、その歌詞を一部、造船事業に関するものに替え、「大島造船所社歌」として採用した。「昇る太陽 ヤードに映えて」という出だしは、新しくスタートする大島造船所にふさわしい文句である。最後の「大造 大造 造船大造 ああ われらの 大島造船所」からは、造船事業は大島をメインにすると言う大造の思いが、そこはかとなく伝わってくる。
まさしく、造船大造を受け継いだ大島が将来に向かって「明るく、たくましく」発展していく心意気を表している。この歌は大造が造船事業から撤退した62年9月、正式に大造の許しを得て大島造船所の社歌となった。

「大阪造船所社歌」は、大阪造船所創立35周年を記念して、歌詞を従業員から募集し、入選した歌詞をもとに、服部正氏によって作詞・作曲されたものである。この歌は昭和46年10月23日(土)、大阪中之島フェスティバルホールで行われた「大阪造船所創立35周年記念フェスティバル」で、服部正氏指揮のもと、ダークダックスと大阪造船所合唱団によって発表、披露された。その時出席した全従業員と家族も一緒に唱和し、みんなの気持ちが一つになった歌が満員の大ホールにこだました。
今、「大島造船所社歌」は各行事において、長崎大島の青空のもとで歌われ、工場の大鉄傘にこだましている。

もう一つ忘れてならないことは、記念フェスティバルの2年後、48年10月22日(月)に大阪厚生年金会館で行われた「大阪造船所 従業員・家族慰安会」である。このころは大島造船所建設の最盛期であり、大島要員として入社した社員と大造の協力社員を含めて従業員総数は2,317人に及んでいた。さしもの厚生年金会館の2,400席の大ホールも家族共々の従業員を収容しきれず、昼の部と夜の部2回に分かれての開催となった。

この慰安会は大阪・大島の全従業員が一堂に会する最後の機会であり、ダイゾー百年の計を全社一丸で再認識するためのものであった。
会場の舞台背後には「大島を成功させよう」という横断幕が掛けられ、社長と組合委員長の挨拶の後に、大島の建設中のスライドが上映された。漸く、雄姿を現し始めた大島造船所に、従業員は大きな感動を覚え、「やらいでか!」と意気天を衝くかの如くであった。
その後、会場は島倉千代子の歌に酔い、梅中軒鶯童の浪曲に聴き惚れ、チャンバラトリオのコントに爆笑した。大島赴任のために大阪を去る人、そのまま大阪に残る人が互いに名残を惜しみつつ、腹の底から笑い、楽しみ、絆を深めた一日であった。

この慰安会はお別れ会であるとともに、「共に頑張ろう」という決起大会でもあった。 最後に大造の発展と大島の成功を祈念し、全員が元気な声を大ホールいっぱいに響かせて、「大阪造船所社歌」を歌い、「万歳」を三唱した。そのあと「頑張れよ」と肩を叩かれ、励まされた大島要員は、希望に胸を膨らませていたが、一方では大阪を離れる寂しさと、未だ見ぬ土地での新しい仕事への不安をその背中に漂わせていた。
大島は大造はじめ、株主、金融機関、取引先など多くの方々のご支援をいただいて今日に至っている。これまでにいただいたご恩に報いる証は事業の継続と発展である。大島の社員はこのことを肝に銘じておかなければならない。

造船は大島にまかせた!その思いを社歌に込めて - 大島造船所誕生と継承された社歌

造船は大島にまかせた!その思いを社歌に込めて - 大島造船所誕生と継承された社歌