大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

箱根の山を越えて – 住重からの派遣者

箱根の山を越えて - 住重からの派遣者

大島造船所(大島)新設が計画された頃は、タンカーブームの頂点であり、当時の日本の新鋭造船所は、全てタンカー専用工場であった。
大島も例外ではなく、タンカー用工場として計画・建設され、創業の年の昭和48年秋までには、89型4隻、138型8隻の計12隻のタンカーを受注していた。
大島の経営主体であった大阪造船所(大造)はバルクキャリア(BC)の経験しかなく、技術面では、株主で技術提携先の住友重機械工業(住重)に頼ることになった。

まず、大造の赴任要員の研修・教育が48年後半~49年前半にかけて住重の各工場で行われた。設計・システム要員は浦賀工場の川間設計ビルで、工作関連要員は追浜工場で、各々タンカーの設計と建造技術を学んだ。
研修・教育を終えた彼らが49年初めから大島に赴任し、新たに採用された社員をリードして、タンカーの建造を実質的に行った。
住重からは幹部及び、基幹要員として、49年~51年に設計と製造要員26名が主に工作部に赴任し、社員を指導育成しながら、立ち上がりの色々な場面で活躍した。当時、設計課は工作部に所属し、住重本体からの基本設計をもとに工作図を描いていた。

52年3月の設計部発足後は、63年始めまでに住重から計30名が赴任し、BC、自動車専用船(PCC)、タンカー、半没水型重量物運搬船(SHLV)など特殊船を含めた多種多様な船の設計を行った。出向者の赴任期間は1年から3年であったが、PCC、SHLVについては、初めての船型であり、住重サイドの技術に負うところ大であった。

以上の出向者とは別に創業以来、12名の役員、14名の管理職、その他1名が住重から大島へ転籍している。53年11月には、多角化を図るため、陸機部を発足させたが、当時の大島は陸機工事の経験が無く、住重から転籍した人材に頼った。
出向者は63年1月の住重への帰任者が最後となり、その後の大島への赴任者は無い。転籍者は現在も経営幹部として、大島の重要な役目を担っている。

住重からの人材には、操業直後は、タンカーの設計・製造技術者として、50年代は、多種多様な船の設計基幹要員と陸機部の幹部として、各年代を通しては、経営幹部として、その力を十分に発揮してもらった。
住重の社員にとって、首都圏から箱根の山を越えて西に行くことは、たいへんなことであったに違いない。「西といっても関西、瀬戸内ならまだしも、九州の西の果て、それも海を隔てた大島ではなあ」というのが偽らない思いであった。
それにもかかわらず、創業以来、計83名もの人が赴任し、大島のために尽くしてくれた。 感謝の気持ちを決して忘れるものではない。