大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

地域の大義に殉ずる – 大阪から撤退し、大島に賭ける

大島造船所(大島)は、大阪造船所(大造)が新たに発展を指向していくための新鋭造船所として計画されたため、大造の大島に対する思い入れは、一方ならぬものがあった。
大造の大島建設本部では、タンカー専用工場ではあるが、将来の建造船種変更をも視野にいれた骨太な建設計画が立てられた。

大島建設後、大造は設備処理と操業調整では、グループ内で率先して、大島の存続、操業維持を支援した。
運輸省は大島新設を許可するに当たって、大造の船台1基を廃止することを条件としたため、大造は昭和52年11月、1号船台を廃止し、2号船台のみの単船台となった。
55年2月の設備共同処理では、大島、大造、住重の3社では船台基数単位の処理が困難であったため、大造が林兼造船(林兼)をグループに入れ、4社間で船台・ドック設備の廃止・交換・融通を行い、大島のドックを守った。また、大島の慢性的な操業(CGRT)枠の不足に対しては、住重は我が身を削って割当枠を融通してくれた。

62年に運輸省より、2度目の船台基数単位による設備処理が告示された。
この時はグループに処理する余裕はなく、大阪の2号船台か大島のドック、どちらかを廃止せざるを得なかった。

創業者南景樹は、地域の大義に殉じて、全てを大島に賭ける決意をした。
大造は自らの身を削って、子としての、分身としての大島造船所に造船業の将来を託したのである。大造は2号船台を廃止し、62年9月、大型船建造事業から撤退した。大造の多くの社員が去っていかねばならなくなった。

我々がここを気に入って来たというだけなら、帰ることもできる。しかし、是非来てくれと言われ、「よっしゃ」と言って来たのであれば、帰るわけにはいかない。大造の全てを賭けてやらねばならない。血を流してもがんばらな、しょうがない。 これが地域の大義に殉じるということである。

この時から、社員は「地域と共に」を覚悟し、全社一丸となり、多数隻建造体制を熟すために頑張り抜いた。協力会社社員も我々と共に生産性向上に励み、建造工程を守り抜いた。現在、大島造船所は県下有数の地場産業として、広く認知されるようになってきた。
大島町長は「産炭地の誘致企業は、全国にたくさんあるが、規模も大きく、これだけ地域の中核企業として活躍している企業は例を見ない」と語っている。

地域の大義に殉ずる - 大阪から撤退し、大島に賭ける