大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

島のハンディが無くなる – 大島大橋開通

平成11年11月11日11時11分11秒、オール1の時刻に司会者のカウントダウンの声に合わせて、金子長崎県知事によるテープカットが行われた。大島大橋の開通である。この瞬間、大島は九州本土とつながり、やっと島の不便な生活から解放された。本土との架橋は、島に住む人々の悲願であり、大島でも10年前までは、まるで夢のような話であった。

大島大橋は大島の属島である寺島と九州本土に架けられた。大島と寺島の間には、大島造船所が昭和63年3月29日に架けた寺島大橋がある。大島は寺島を介して、九州と結ばれたのである。

炭鉱が盛況の頃、大島から島外への交通手段は佐世保航路が主役で佐世保まで1時間かかった。間もなく、対岸への定期航路が開設され、対岸の九州本土まで15分で行けるようになったものの、最初は通勤や農産物を運ぶ生活航路の意味合いが強かった。

その後、交通事情の進展により、車輌も載せるフェリーが就航したが、対岸の道路は、対向車とすれ違うこともできないような砂利道だった。

大島造船所の進出により、対岸の道路が整備され、フェリーは造船所の資材を積んだトラックなどを運んだ。平成9年以降は、16隻を超える建造体制で大島を訪れるトラックが急増し、フェリーが満船になって、乗船に30分から1時間待たなければならないことも多々あった。

橋の開通により、フェリーの時代から大島大橋の時代へ、当社を取り巻く交通アクセスは飛躍的に改善された。

大島大橋は三菱重工業(三菱)、大島造船所(大島)、佐世保重工業(SSK)、辻産業(辻)の4社共同企業体で建設された。
まず、大島の鉄構部は、橋脚基礎のケーソン4基のうち1基を製作し、平成7年5月、現地の海底に沈めて設置した。

大橋両端の取付橋は大島が半分を製作、SSKと辻が残りを製作した。SSKと辻の製作分も含む全ての取付橋ブロックを、大島造船所2号岸壁横の鉄構定盤で、寺島側、太田和側の各々の橋として大島が一体に組み上げ、9年10月、1,300トン海上クレーンで、一挙に架設した。

メインの橋は、主塔からワイヤロープを斜めに張って橋桁を吊る構造から、「斜張橋」と呼ばれ、主塔は三菱が、橋の主桁の2割は大島が担った。
斜張橋の主塔間の距離、即ち中央径間は350mで、竣工時点で国内では12番目の長さである。また、橋の全長は1,095mで、関門橋の1,068mを抜いて、長崎湾の女神大橋が完成する平成18年3月までは九州最長の橋である。

寺島水道の紺碧の海、寺島と対岸の太田和の緑、澄み渡った空の青、その中に白くそびえる主塔と水平に架かる橋、それらの絶妙のコントラストと融合が、見事な風景を創り出している。寺島側の橋のたもとには、大島大橋公園が設けられ、そこからは橋を下から見上げる面白い構図を楽しむことができる。

大島大橋開通による交通の利便性の向上は、企業にも地域社会にも新たな活力を生み出すもとになる。大島アイランドホテルの宿泊者数は開通後の12年度には前年より25%もの伸びを見せ、現在に至るも着実に増加を続けている。地域社会の人と物の交流が盛んになってきた証である。
14年度の橋の通行量は1日当たり3,453台で、これは長崎県の計画値2,349台を47%も上回っている。本土と島に架かる有料の橋では、日本で一番採算の良い橋である。

橋が架かったことはすべてに亘って良いことずくめだが、命名引渡式が終わった後、お客様が船で帰るのを見送った、あの感動の別れのシーンが無くなった。船の別れのシーンが恋しいのも、また事実である。情感を感じることと利便性を追求することを両立させることは、ほんとうに難しい。

島のハンディが無くなる - 大島大橋開通