大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

治にいて乱を忘れず – 急激な円高を予測、非常事態宣言と3B運動

治にいて乱を忘れず - 急激な円高を予測、非常事態宣言と3B運動

平成に入り、市況は上向き、平成2年度から5年度までの4年間は好業績が続いた。おかげで累積損失も無くなり、少しずつ剰余金が出るようになってきた。
しかし、平成5年になって、為替相場は前年の1ドル120円から100円台へと円高に転じる。円高不況といわれ、実質経済成長率は、マイナス0.5%となった。
船は世界単一市場の商品であり、6年以降の為替相場の動向が懸念された。
5年の年末には、1ドル110円台の円安に振れて、6年は100円台から110円台の攻防だろうとの予想もあった。しかし、当社は円高が進み、100円を切る可能性もあると予測した。

そして6年々頭、南社長から「最悪の事態に備えよ」と非常事態宣言が発せられる。
「事を計るは人、事を成すは天」と言い切れるまで、先ずこの1年間を頑張ろうとZ旗が掲げられた。1ドル50円に備え、大島造船所を大胆に変革する3B運動が始まった。3B運動とは、Brave Brilliant & Big Innovationの略称で、Brave―勇気ある強さ、Brilliant―輝くような明るさ、Big―質量ともに全て大きくを意味し、「強く 明るく 全てを変革」する全社員を巻き込んだ運動である。
社長を本部長とする3B運動推進本部が設けられ、その下に3B推進委員会、3B推進室が置かれた。
3B推進室には、各部門から選ばれた9人が専従で入り、6年1月から3月まで運動展開方針・具体的推進方策の立案にあたった。作業は先ず、調査・研究・分析から着手し、昼夜をついで行われた。また、3B運動の盛り上げを図るため、週刊の3B新聞を発行し、全社員に配布した。

3月末には、提言書と課題票をまとめて本部へ答申した。提言書には業務改革35件、人員対策11件、人材開発23件、処遇制度15件の計84件が盛り込まれ、それらの具体的展開方法が課題票に記載された。これらは合わせて550頁に及ぶ大作である。

4月から提言書、課題票は各部門に下ろされ、それに対する取り組みが各部門で検討された。7月1日の安全祈願祭のあと、現業の班長以上と間接部門全員による3B運動キックオフ大会が開催された。そして午後から、関係者132名による決起集会がアイランドホテルに場所を移して行われ、各部門の代表者が、それぞれ具体的な取り組みの発表を行った。
かくして、6年7月から9年3月まで3年に及ぶ全社的な3B運動が動き出した。

為替相場はその後、円高が進み、6年6月に1ドル99円と100円を切ったばかりか、7年4月には79.75円と80円を切る事態になり、産業界はこの先どうなることかと危惧した。
「備えあれば憂いなし」。大島造船所は、このことを事前に想定して、3B運動などのコストダウンと円建てによる受注活動に取り組んできたため、何とかこの危機を凌ぐことができた。とはいえ、辛勝だった。世界経済の大きな流れには逆らえず、赤字にはならなかったものの、6年度、7年度の収益は5年度の半分以下に落ち込んだ。

Z旗は、6年1月6日の新年互礼会後、掲揚式により掲げられ、9年1月6日まで、本館前に翩翻とひるがえった。同時に全従業員のヘルメット、事務所の机にZ旗のシールが貼られた。さらには背広の社章の上に、全員Z旗のバッジを付けた。
このZ旗は、日露戦争の日本海海戦で連合艦隊司令長官・東郷平八郎大将が旗艦「三笠」のマストに「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」とZ旗を揚げたことにあやかったものである。
笑い話になるが、社長が年頭の挨拶で全従業員に非常事態宣言を発し、Z旗の話をしたところ、大島造船所もいよいよジェット機を造るのかと受け取った社員もいた。

大島造船所は設備保有会社である大阪大島造船不動産に造船設備のリース料を払いながら運営してきた。リース料は昭和63年1月から、総額180億円に及んだ。
平成6年6月、両社の累損が解消し、両社が合併して、資本金75億円の㈱大島造船所となった。ここに株主保証付きではあるが、再建をようやく果たしたのである。

治にいて乱を忘れず - 急激な円高を予測、非常事態宣言と3B運動