大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

思いもかけない「おみやげ」に大喜び – 創業者の「おみやげ」

平成元年は23隻の船を受注し、翌年以降、業績回復が確かなものになってきた。この年の株主総会で、創業者南景樹は代表取締役相談役に退いた際、兵頭会長と南尚社長に「この長い不況を従業員はほんまに、皆よう頑張った。よう耐えてきてくれた。私は本当に嬉しい。会社の見通しがたった段階で、皆を集めて、『ご苦労やった』『この苦労を凌げれば、もうどんなことも怖くはないぞ』と挨拶したい。その時、私から皆に『みやげ』を出したい」と語った。
「これをさせて貰うことが、これからの私の楽しみだ。従業員が奥さんと子供から『お父さん良かったね』と言われながら、家族と共に喜んでいる。そんな一家団欒の情景を思い描くと自然に頬が緩み、心が和む。」と続けた。

平成2年1月8日の年頭の挨拶で、この「みやげ」話をすることを楽しみにしていた南景樹はその願いも叶わず、1月6日病魔におそわれ、8日忽然と他界した。この挨拶を現実に聴くことは、誰もできなかった。
2年は、まだ黒字になっていない、株主へ配当もしていない、世間並みの金利も支払っていないような状況であったが、経営陣は創業者南景樹の遺志をくんで、彼の誕生日である7月20日に、協力会社も含む従業員に「みやげ」を現金で贈ることにした。

世間並みの夏のボーナスをもらったばかりのところへ、再度ボーナスに匹敵するような「おみやげ」に皆は夢かと疑い、歓喜した。そして、次のようなシーンが繰り広げられた。 支給日の当日、南尚社長の挨拶のシーン。社長は次のように語った。
「大島は復活の軌道に乗った。皆さんは18年間、よく耐えてくれた。創業者南景樹の『おみやげ』を支給する。今までのウップンを晴らそう。全部使おう」

当日の職場のシーン。
「おみやげ」をもらった従業員は、まるで競輪選手のように自転車を全速で漕いで家に帰った。どの顔もどの顔も満面に笑みをたたえていた。

当日、家庭のシーン。「おみやげ」を手にお父さんの言葉。
「会社は生き残った。景樹さんからの『おみやげ』をもらった。社長から、全部使え、家族以外に絶対しゃべるなと言われた」
「俺に3万クレ。じいちゃん・ばあちゃんに5万づつ、お母ちゃんは苦労したので、10万円やる。子供達はほしいものを言え、明日何でも買ってやる」
翌日、佐世保から大島へ向かう船の中は、買い物袋を一杯下げた家族連れで溢れんばかりであった。対岸、太田和発からの最終便とその前の便のフェリーも、買い物帰りの車で満杯だった。どの車のトランクも買い物が入りきれない程一杯で、蓋が閉まらず、ゴムで縛っていた。

翌日の朝、西海町の実相寺のシーン。
6時からのお参りの後、説教しようとしたお上人の目に、善男善女・お爺さんお婆さんが華やいで見えた。
「何かいい事あったとね」とお上人が尋ねる。
「あったとさ」「何ね」「それが言えんとよ。よかごとあったばい」 「内緒で教えてよ」となおも尋ねると
「それなら、内緒で教えるから、よそで言うたらいかんよ。会社が復活して金一封が出たとよ。そいで息子からお小遣いをたくさんもろたさ」とお婆さんがにこにこ顔で答えた。
実相寺のお上人が「よかった。実は私も訳あって造船復活を毎日、お祈りしとったばい」と言うと、みんなは有り難い気持ちを満面に浮かべて頷いた。

従業員と家族にとっては、耐えて耐えて耐え抜いた後の「おみやげ」であっただけに喜びも一入であった。
喜びと感謝の中で、社長が言ったとおり、ほんとうに全部使ったようである。
「よかった」社長は腹の底から微笑み、
「よし、これからだ」と心の中で誓った。

思いもかけない「おみやげ」に大喜び - 創業者の「おみやげ」

思いもかけない「おみやげ」に大喜び - 創業者の「おみやげ」