大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

得手に帆を揚げる – バルクに特化

得手に帆を揚げる - バルクに特化

平成元年に入って、市況回復の兆しが確かなものになってきた。年初から南尚が社長に就任した6月25日までに40型バルクキャリア(40BC)8隻と自動車専用船(PCC)1隻を受注した。結局、元年には40BC17隻、PCC2隻、チップ船2隻、46オープンBC2隻と計23隻もの大量受注をしたので、翌年以降の業績回復への手応えを感じた。

しかし、その当時、建造しているのは過去に受注した船なので、利益が出る状態ではない。昭和63年年初の新生大島造船所誕生以来、62年度、63年度と赤字決算で、平成元年度も赤字が予想された。新しい資本金60億円の内、5割近くを食いつぶした。
もし、2年度も赤字なら、株主との約束で会社清算の予定だった。
まさに背水の陣である。この難局を前にして全社一丸となって再生・再興に邁進した。

銀行は陰で「おしまい造船所の幕引き社長」と言いながら、就任早々の南尚社長に対し「借入金の対売上高比率改善」を要請した。これに対し、「年間10億円の返済と年間10%の売上向上」を約束し、社長は自らに縛りを掛けた。
この約束が実行できれば、株主保証の増額も追加借入もしなくて済む。キャッシュフローを最重視し、銀行との約束をバネにする経営戦略を取った。
これを達成するためには、多数隻建造体制を選ぶしか道はなかった。
受注を多くできれば、契約金が入り、お金がうまく回り始める。
得意のバルクに絞れば、材料も調達しやすいし、設計も人材を集中し、良い設計ができるうえ、見積業務も大きく狂わない。即ちコストダウン効果が大きく、業績も良くなる。

平成3年、南社長は「バルクに特化」という大方針を掲げ、設備もバルクの量産に絞っていったが、「バルクに特化」は一朝一夕には成らなかった。
「バルクだけを取るのは難しい」と営業が言えば、「バルクだけを造るのではないのか」と工場が詰め寄る。その綱引きの間で、双方をなだめながら、「バルクに特化」にシフトすべく説得を重ねる日々が続いた。
社内にもマーケットにも、大島のターゲット船を認知してもらうのに数年を要した。

一方、船価は一向に上昇せず、韓国の造船業は益々強くなってきた。
社長は「平和の浸透で需給環境は供給過剰。コストダウンしかない」と言い続けた。
資材、設計、工作を始めとする工場のコスト部隊には辛い日々だった。来る日も来る日もコストダウンに取り組み、期待に応えた。
営業もこれに応え、受注を伸ばした。車の両輪がようやく回転し始めた。

売上高を増やすために、建造体制を先ずはシンプルに月1隻、年間12隻から始めて、可及的速やかに月2隻、年間24隻に持ち込む計画であった。
そのような経営方針を固めていた矢先、平成2年1月8日、創業者南景樹・代表取締役相談役が逝き、寄るべき大きな精神的支柱を失った。
多数隻建造体制実現の成否に、新生大島造船所の命運がかかっているのは勿論のこと、大島造船所が成り立たなくなれば、株主3社にも多大な影響が及び、特に親会社の大阪造船所においては、会社存立にも関わる可能性があった。腹を据えて、多数隻建造に取り組む他なかった。