大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

戦力温存に成功 – 応援派遣終了

戦力温存に成功 - 応援派遣終了

新生大島造船所となった昭和63年も、市況は相変わらず厳しい状態が続いていた。 3月31日には、第2次設備処理が完了し、国内の造船所は44社21グループから26社8グループに集約され、設備能力を24%縮小した。また、第2次不況カルテルも翌年3月まで延長された。
しかし、このような中、わずかではあるが、明るい兆しも見え始めていた。
翌年の平成に入り、造船業界を覆っていた暗雲の中から曙光が差してきた。市況回復の足音が遠くから聞こえてきた。

大島造船所も先行きの受注の目処が見えてきたので、平成元年4月1日、2年前の賃金カットなどの62・3合理化項目を復元した。
操業が上向くにつれて、応援派遣者の帰任が待望され、日本電装以外への派遣者は全て大島へ戻って来ていた。ところが、派遣先として唯一残った日本電装は大変忙しかった。南尚副社長が日本電装に行き、応援派遣者の帰任をお願いしたところ、先方から「かって、あなた方は社員を預かって欲しいと言ってきた。今回は、逆に私どもが、もうしばらく、置いて欲しいと頼んだら、どうしますか」と言われた。
これには困って「なんとしても必要と言われるならば、なにがなんでも連れて帰るという訳にはいきません」と返事した。すると先方は「それを聞き、よく分かりました。帰すことにします」とニッコリ笑って言った。ほっと胸をなで下ろした瞬間であった。

その時、南尚副社長の胸は、派遣先から信頼を得るよう一生懸命頑張ってくれた社員に対して、心からの敬意と感謝の気持ちでいっぱいになった。

応援派遣者が帰任する時、日本電装の人事担当の役員から「皆さん、ご苦労様でした。経済的には、大島造船所より日本電装の方が恵まれていると思いますが、少なくとも、皆さんの会社は皆さんを守り通したじゃないですか。いい会社ですよ。皆さんは、ここで一生懸命働いてくれました。ありがとう。明日からは、青空の下でのびのびと造船の仕事をしてください。大島に帰ってしっかり頑張ってください」という訓辞があった。
かくして、派遣者は4月1日、意気揚々として大島に帰ってきた。3年7ヶ月に及ぶ応援派遣が終了したのである。

応援派遣に行った人の苦労は大変なものだったが、このことが今日の大島をあらしめた。後日、取締役会で「大島が立ち直った最大の原因は、応援派遣を決定したことだ」と評価された。もしあの時点で、人員削減を強行していたら、今日のようにスムーズに立ち上ることはできなかったであろう。
そこまで春が来ている、必ずよくなるという、創業者南景樹の励ましの言葉を信じ、応援派遣で戦力を温存したことが、ぴたりと当たった。

戦力温存に成功 - 応援派遣終了