大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

ひたすら耐える – 再度の合理化、関係会社3社の設立

昭和59年度は、三光汽船シリーズ船6隻の内4隻を進水させた後は、自動車専用船(PCC)が主な建造船型になった。しかし、建造隻数はタグボートなどの小型船を除いて、60年度7隻、61年度5隻、62年度4隻とどんどん先細りになっていく。61年度の上五島石油備蓄タンクを入れても、操業量はどんどん落ち込んでいった。

60年9月からの応援派遣、61年4月からの時間延長を労使合意のもとに実施した。また、同じ4月には、大島造船所の間接部門の効率化を目的に、大島エンジニアリング(OEC)、大島メインテナンス(メンテ)、大島総合サービス(総合サービス)の関係会社3社が設立された。
OECは装置設計とNC作業を設計部から分離させた会社で、ソフト開発と鉄構関連の設計・製造なども行う。メンテは機器動力係が工作部より独立して設備保全などを、総合サービスは保安部隊が総務部より独立し、警備保障と人材派遣などを業務とした。当座は大島造船所からの仕事を主とするが、外販も行っていくことが謳われた。
現在、OECは設計請負とIT関連事業、メンテは設備保全事業、総合サービスは給食、売店、人材派遣事業として営業を続けている。これらは、造船所は元より外販にも手を拡げて、大島造船所グループを構成する重要な会社となってきた。

61年8月12日、応援派遣者が盆の休暇で全員帰ってきた日に合わせて、アイランドホテル庭園広場において、「大造ファミリー 夏の夜の集い」が催された。応援派遣部隊、留守家族、新会社への出向部隊をはじめ全社員とその家族が集まり、「頑張るぞ 負けないぞ 生き抜くぞ」というスローガンを全社一丸となって唱和した。

62年も受注見込みの船が少なく、先行きの業績の悪化が明らかになってきた。 62年3月、労使で妥結した合理化(62・3合理化)により、62年4月から賃金が9.8%カットされた。ボーナスも夏冬合わせて1ヵ月になった。
社員の給与は生活するのに、ぎりぎりの状態であった。
大島の西は東シナ海に面していて、社員はこの海を東シナ海銀行縮め、東海銀行と呼んだ。海の東海銀行は預金不要で引き出し自由な魚の宝庫である。あじ、めばる、わかめを東海銀行から引き出し、自力で家計を支えた。時間延長で土曜日が出勤になったため、少ない休日には、大島の釣り場が大賑わいになった。

造船業界では、市況の悪化に歯止めが掛からなくなってきた。62年4月1日には「特定船舶製造業経営安定臨時措置法(経営安定法)」が公布された。第2次不況カルテルが公正取引委員会に認可され、実施された。

6月9日、運輸省は経営安定法に基づき、船台の基数単位による20%の第2次設備削減及び企業集約化(グループ化)による経営安定策の基本指針を告示した。これらは、63年3月31日を期限として実施することになった。

大島造船所はドックが1基なので、大島単独で設備削減をするならば、工場閉鎖となる。 大島造船所、大阪造船所、住友重機械工業、林兼造船のグループは、再度、グループ内での設備処理をすることになった。大阪造船所は大島造船所存続のため、唯一残っていた2号船台を62年9月をもって廃棄して、大型船建造から撤退することを決意した。大阪造船所は実質的に造船工場の閉鎖に追い込まれたのである。多くの社員が大阪造船所から去らざるを得なかった。
親会社の大阪造船所は自らの身を削って、子としての、分身としての大島造船所に造船事業の将来を託した。この時、大島造船所の全員は、親会社の期待に応えるため、ひたすら耐えて生き残り、成長・発展するしかないと誓い合った。

ひたすら耐える - 再度の合理化、関係会社3社の設立