大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

再度の大不況と応援派遣 – 自動車業界等への応援派遣

再度の大不況と応援派遣 - 自動車業界等への応援派遣

昭和57年に入って、再び海運市況が悪化し、受注が減少し始める。そのような中、三光汽船による日本造船業界へのバルクキャリア大量発注が旱天の慈雨のごとく、大島造船所の59年度線表(*)を埋め、仕事の急激な減少を緩和したのは、幸いであった。
それでも60年度以降の大不況再突入が明らかになってきた。
60年12月にブラスト室と空調機能を備えた本格的な塗装工場を建設し、上五島石油備蓄タンクの建造に備えたが、備蓄タンクを入れても61年度の操業量は、大幅に落ち込んだ。
(*)各船毎の建造工程を線で表したもの。建造計画一覧表

大島造船所は坂を登りきらない内に再び、転げ落ち出した。再び人員削減の必要に迫られた。前の不況時の54年には従業員を半減させた。しかし、今回は
①人材の温存を図らずして、次のチャンスは掴めない。
②大島造船所は人を大切にする方針を貫く。
という理由から、雇用を守ることを第一義にした。労使は「雇用を守る」ためならば他のいかなる困難も共有することで意見が一致した。

昭和60年9月から平成元年3月までの3年7ヵ月の間、延べ6,459名の社員が「応援派遣」という形で、日本電装・日野自動車・ダイハツ工業・トキコ・鈴木自動車工業・日進工業所・艶金興業・艶金製絨・神星工業・ワイシーエンジニアリング・共立レジンクラフト等大企業から中小企業に至るまで、色々なところに派遣された。
当時の自動車業界は好調で、特に日本電装には、多くの社員がお世話になった。

社員は、応援派遣先の慣れない仕事に苦労した。今まで、造船はきつい仕事と思っていた。秒単位に進むコンベア作業をしてみて、造船の方は大きなゆっくりした流れで、よほど楽だと思い直した。皆、家族と会社のために歯を食いしばって頑張り抜いた。社員はここで自動車産業のスピード感を身につけた。
会社幹部や組合役員の現地での激励に対して、派遣された社員は「あなた方より女房子供の顔が見たい」と叫んだ。仕方がないことではあったが、会社幹部や組合役員は情けなさが込み上げてきた。何度も「すまんなあ」と言った。
このようなやりとりの中にも、首を切らない会社と派遣された社員の間には、少しずつ、心の奥底でお互いに信頼感という新しい絆が生まれつつあった。

昭和61年3月27日、合理化申し入れに関する労使覚書(61・3合理化)が締結された。
4月から、年間所定労働時間を2,025時間から2,320時間に延長した。 2カ月間ただで働いてくれということだった。
応援派遣に送り出されるのも地獄なら、大島工場に残るのも地獄。
首を切らない会社がえらいのか。それに耐える社員がえらいのか。
どちらもえらい。
これが会社と社員の相互信頼を醸成する元となった。