大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

大島特産「さつまいも」の活用 – 長崎大島醸造設立、焼酎事業に進出

大島町は、一家の働き手が、造船所等に働きに出ていくため、農地の荒廃化が進んでいった。そこで、これを防止し、農業振興を図るため、3ちゃん農業で手もあまり掛からない「さつまいも」作りを復活しようと考えた。そのために「さつまいも」の売れ先を開拓する必要に迫られた。東京・西新宿の石焼き芋屋に頼んだり、芋焼酎製造を目論んだ。

大島町が主体となって検討した焼酎製造は、福岡国税局との交渉過程で、大島町ではなく、民間主導型の事業形態でなければ、許可されないこととなった。そこで、町から当社が主導する第3セクター方式での焼酎事業を頼まれた。
経営会議では、「これは大事やなあ。逃れられるものなら逃れよう」という反対意見が多かった。しかし、地域との関係への配慮も含めて、慎重に検討を重ねた結果、前途多難が予想されながらも、やむなく焼酎事業に出ていくことにした。
昭和60年3月4日、子会社の西九州開発を主に、大島町、地元有力酒造会社等の出資を受けて、長崎大島醸造株式会社(大島醸造)が設立された。
設備資金をできるだけ抑えるため、新設を止め、小さな鉄工所の工場を買って焼酎工場に改装した。また、当分の間、赤字が予想される為、大島アイランドホテルの経営と同じように、造船所の利材工場を大島醸造に組み入れて安定経営を目指すこととなった。

当時、福岡国税局は、新しい免許は絶対下ろさないとのことで、結局、新規取得はあきらめ、既存の遊休免許を有家町の吉田屋酒造から譲り受けた。そして、60年5月、長崎税務署より焼酎乙類の製造免許が交付された。
すぐさま、鹿児島の薩摩酒造から杜氏を呼び、焼酎を造り始めた。
60年11月には、製品発売披露パーティーを大島アイランドホテルにて開催した。
商品名は一般から募集した。4,700件に及ぶ応募の中から麦焼酎は「いつもの奴」、芋焼酎は「ちょうちょうさん」、古酒の高級麦焼酎は「大福帳」と名付けられた。

販売促進については、高名な焼酎評論家が「よそにないうまい焼酎だから、卸の酒販会社にはお願いに行くな。向こうから取りに来るのを待て」とアドバイスした。何もわからない焼酎経営陣はアドバイス通りにした。各酒販会社からは「ばか者」と大批判を受けた。

「あせっても仕方がない。じわじわ行こう」と腹を括った。
先ず、酒販会社に頭を下げて、お願いに行き、東京、福岡、大阪と営業拠点を少しずつ広げていった。

世の中には不思議なことが多い。焼酎経営を全く知らない大島醸造は一生懸命焼酎を造り続けた。しかし全く売れなかった。その売れなかったことが後になって幸いに転じた。売れ残った大量の焼酎は質の良い古酒になった。その間、利材工場のおかげでなんとか会社は成り立っていた。最初に蓄えられた質の良い古酒のお陰で評価が高まり、その後は販売と製造のバランスが取れるようになった。
近年、健康に良いと言われて、焼酎が見直されている。若い女性の間では面白いことに、くせのある芋焼酎がブームとなっている。
「大島ブランド」の焼酎も少しずつ全国的に広まり、販売が伸びている。
現在、大島醸造は、大島造船所が筆頭株主、大島町が第2位の株主となり、地域社会の夢のある事業の一翼を担うまでになってきた。

大島特産「さつまいも」の活用 - 長崎大島醸造設立、焼酎事業に進出