大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

青雲学舎開校 – 町内唯一の学習塾オープン

青雲学舎開校 - 町内唯一の学習塾オープン

大島町は、青い海、緑の山、旨い空気と水があり、生活環境は申し分ない。しかし、残念ながら、大島では「将来、僕は、私は、これになろう」という思いに加え、それを実現するためにどうすればよいのかという競争心を育む環境が都会に比べて少ない。良い意味で大島はのんびりしている。

東京・大阪等から家族を連れてきた人の場合、子供が高校にいく頃になると、奥さんと子供が島から出ていく。そして旦那だけが島に残る。旦那が「単身置き去り」にされる。
「単身置き去り」も「単身赴任」も旦那は、寂しく、侘びしい生活を強いられ、奥さんと子供も頼りになる一家の大黒柱が不在の、何となく虚ろな家庭環境の中で生活することになる。

創業者南景樹は早くから、この問題について、佐世保に炭鉱時代のように子弟の寮を作る等の対策を講じて、何とか解決しなければならないと考えていた。しかし、不況が災いして手を付けられなかった。
業績が回復してきた昭和57年12月に至り、創業者は造船所子弟並びに町民子弟も含めた学力レベルの向上を図るべく、学習塾の開設を決意する。
高校まで、この島に住んで勉強し、大学を始めとする上級学校に入ることが出来れば、単身置き去り、単身赴任もなくなると考えたのである。

このような経緯で、2階建ての立派な塾舎が青雲寮の側に建てられた。そして、青雲学舎と名付けられた学習塾が、子会社である内浦開発の教育事業部のもとで58年9月に開校した。中学生43名、高校生55名、計98名の塾生を迎えてのスタートであった。

その当時、学習意欲の盛り上がりとともに、全体の成績も上がって、父兄を始め、関係者は大いに喜んだ。
しかし、一部の地元教育関係者には、創業者が意図したことが、そのまま受け止められないこともあった。時には、「我々の教育方針に不満があるのか」という別の問題に発展もしたが、これを機に学校が補習授業の強化等に本格的に取り組んでくれたことは幸いであった。
この問題は佐世保航路に高速船が就航し、通勤・通学の便が飛躍的に良くなったことによって、創業者の思いとは別の形で解決していった。

うした変化の中で、青雲学舎は役割を終え、平成5年8月末閉校した。塾としての活動期間はちょうど10年であった。
かつて、中高校生が学んだ青雲学舎は、現在、中国の造船所から派遣される研修生の宿舎として持ち場を得た。その厨房は、大島の隠れた本格的中華料理場として、大造ファミリーバーベキュー大会を始めとする会社の諸行事に本場の味を提供している。

青雲学舎開校 - 町内唯一の学習塾オープン