大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

待望の迎賓館 – アイランドホテルのオープン

お客様用のゲストハウスの建設・運営を目的に、操業を開始した年、昭和49年の 12月26日に大島造船所、大島造船所の株主3社および地元有力企業の出資(*)によって、西九州開発株式会社が設立された。しかし、創業間もなく不況に入り、ゲストハウス建設どころではなくなってしまう。
やむを得ず、船の命名引渡式の前夜祭は、長崎の料亭で行われることになった。前夜祭の後、お客様の中には長崎の繁華街、銅座で夜が更けるまで痛飲する人もあった。いずれのお客様もそのまま長崎のホテルに宿泊した。
翌日は、朝早くから食事を摂り、大型バスで大島へと移動する。移動の車中では、さながら寝台列車のようにみんな、寝入った。世話をする社員も、夜のつき合い、早朝のお客様への連絡、大型荷物の積み込み等でくたくたになった。
命名式が終わった後の祝賀会は、工場本館の船級協会及び船主監督用の食堂で行われた。
(*)現在の株主は大島造船所、地元有力企業および大島町

朝早くからの移動、貧弱な祝賀会の会場に加えて、一息つける休憩場所もない有様であり、接客施設は他の造船所に比べて著しく見劣りするものであった。
都市部の造船所はシティ・ホテル等の接客施設を利用することができ、交通も発達している。地方にある古い造船所は伝統あるゲストハウスを完備している。しかしながら、大島には何もない。造船業には心のこもった温かいもてなしが非常に大切であり、その目的をうまくコーディネートするためのゲストハウスが切望された。

54年後半からの受注環境の好転を機に、建造隻数を増やすことになり、今後の営業政策上、ゲストハウス建設を緊急かつ重要な問題と判断した南景樹社長は、55年6月、ゲストハウス建設のプロジェクトチームを発足させた。
建設用地の選定に際しては、島内を中心に物色を重ねたが、適当な候補地が見つからない。やむなく、当初、監督宿舎用地として予定されていた工場の本館横の空き地に建設することを前提に作業が進められた。

ところが、南社長は、将来の大島町の観光に寄与すること、およびホテル事業の独立性を考えて、工場敷地内の建設に難色を示し、自ら島内を廻った。
「どれも帯に短し、襷に長しやな。何れにしても馬込港の近くがよいな」と工場の周りを廻るうち、「あの入り江の岩の上ではどうか。景色もよいし、工場も近いし、迎賓用としても、観光用としても申し分ない」と気に入る場所に出会い、建設適地として推した。
この入り江は内浦と呼ばれ、奇しくも、46年に新工場を求めて南社長が大島を視察した時、その美しい景色に魅せられた所であった。

しかし、この地区には、大きな問題があった。内浦地区は、都市計画法に基づく都市公園地域であり、建設の許可が下りない。
南社長はこの件について、久保知事にゲストハウスの必要性と合わせ、地域住民のコミュニティ施設提供と地域経済拡大のための観光開発を訴え、同意を得た。
その結果、この地区のホテル用地は都市公園地域指定から解除され、建設計画がスタートした。

計画では、40室程度の客室を有するホテル形式のゲストハウスとされたが、この規模では、また大島という地にあっては到底、採算に乗せることは困難であった。この時たまたま、外注していた造船所の型鋼ショットブラストを、西九州開発に請け負わせることによって、採算性向上を図る案が出てきた。かくして、型鋼ブラスト工場を造船所の中に造り、西九州開発はホテル事業とブラスト事業の2本柱でいくこととなった。

設計については、当代一流の黒川紀章氏に依頼することになっていた。しかし事情ができ、ホテルオークラ等のホテル設計に実績のある「観光企画設計社」に依頼した。そして、日本開発銀行、住友信託銀行等の融資を受け、建設は開始された。
このような経緯を経て、昭和58年3月3日、待望の大島アイランドホテルがオープンする。かくして、命名引渡式の前夜祭・祝賀会は大島アイランドホテルで行われるようになり、今までの心を込めたもてなしに加えて、さらに形が整うようになった。

ホテルは、その後、平成2年に第2期工事で新館が建てられ、リゾート用の15室の客室と大宴会場が増設された。10年の第3期工事では、新たにレストラン、地ビール醸造工場、トロン温泉といった癒しの施設が設けられた。
また、第4期工事として、レストラン前面の海上デッキに近代的な宴会場の建設を計画している。これによって、引渡行事、各種宴会がさらに充実していくこととなるだろう。

待望の迎賓館 - アイランドホテルのオープン