大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

つかの間のやすらぎ – 造船ミニブーム

つかの間のやすらぎ - 造船ミニブーム

昭和50年から始まった不況で、だんだん造る船が少なくなった。総組ヤードで建造した小さなタグボートを、巨大なゴライアスクレーンで吊り上げ、海水を張った広いドックに、ポチャンと降ろして進水させた。悲しい光景だった。
53、54、55年度には、底を這うような操業になり、経常損益は3年間で170億円もの赤字を記録する。累積赤字も244億円にまで膨れ上がった。
まさしく、「嵐が吹けば地に這い、嵐の去るのを待ち、雪が降れば雪に添い寝をして我慢する」がごとく堪え忍んだ。その時に「時来たらば」という社員一丸の気運が知らず知らずのうちに醸成されていった。

このような不況のただ中にあった54年秋頃を境に、海運市況は上昇の兆しを見せ始めた。そのうち設備共同処理の効果とも相まって、需給バランスが回復し、船の引合い案件が活発に出てくるようになる。
船価もみるみる上昇し、この好機を逃すまじと積極的な営業活動を展開した結果、採算のよい船を受注することができるようになった。
船種は55年頃まではタンカーが主であったが、56年に入ると、64BCを2隻、37BCを4隻受注した。また、半没水型重量物運搬船のような特殊船もあった。

こうした市況好転を受けて、55年の2月8日に、56年度を初年度とする「経営改善中期経営計画」を策定し、積極的拡大経営に転換する。これを「2・8計画」と呼び、その目的は、累積赤字の早期解消であった。その骨子は、
①5年後の61年度に操業400万時間、55型パナマックス・バルカー10隻を目指す。(今日的に考えればおかしな数値である)
②現市況を最大限に活用して56~58年度の3年間に累積赤字を200億円以下に改善する。
③操業規制による当面の割当不足分、55年度13,380CGRT(188頁の用語解説参照)、56年度 28,000CGRTに対して、大阪造船所、住友重機械工業、林兼造船のグループ各社にCGRTの融通を懇請する。
④従業員数は極力抑えるが、操業量に対応し、61年度、直接工ベースで1,750名を目途とする。
となっていた。

社員の採用は受注好転が見えていた55年度からの3年間で、定期採用299名を含めてトータルで582名に及んでいる。54年度に最低795名まで削減された協力社員を含む従業員は、57年度1,650名になった。増員はこの好況が暫く続くとの判断のもと、これを確実にキャッチする為のものであった。
こうした攻めの施策が功を奏し、56、57、58年度の経常損益は、黒字が合計98億円にも達した。累積赤字は「中期経営計画」で想定していた額より好転したが、未だ100億円以上残っていた。借入金は不況で返済ができていなかったので300億円を超えていた。

とはいえ、このまま行けば、業績も順調に回復し、何れ、累積でも黒字になるだろうと思われた。
しかし、その予想に反して、造船マーケットは57年をピークに急激に落ち込んでいく。引合い案件がぱったり途絶えて、59年度から、第2次造船不況に突入する。
造船業は好況が短く、不況が長い。今回の好況も3年間しか続かなかった。
56年からの3年間は造船ミニブームと言われ、つかの間の安らぎに過ぎなかったのである。

つかの間のやすらぎ - 造船ミニブーム