大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

多角化の始まり – 陸機部の発足

多角化の始まり - 陸機部の発足

造船不況により操業が極端に落ち込んだため、仕事を増やす必要性から、経営多角化に取り組むことになった。
昭和51年頃、大島・崎戸のすぐ南の島の松島に、石炭専焼火力発電所の建設計画が具体化してきた。これを好機と、大島造船所(大島)では立地条件の有利性を生かし、多角化の一環として、受注可能な案件の調査を開始する。そして、工作部内に陸上物件進出を促進するために、52年9月、陸機準備室を設けた。
残念ながら、当時は独力で陸機工事のエンジニアリングができなかったので、住友重機械工業(住重)に営業等も含めた援助を求めた。

その後、準備室は53年11月に陸機部として独立し、住重より人材の供給を受け、原図場として使う第2設計室の建設等の設備投資をして本格的な活動を開始する。
当時の製作物は、松島火力発電所のダクト、上海宝山製鉄所向けダクト等で、慣れない薄板の加工や、造船とは異なる薄板構造の嵩高さに悪戦苦闘した。結果は大赤字であった。この頃造った大島町の山祇橋は大島造船所における橋梁製作の第一号である。そして大島と寺島間の寺島大橋、近隣のゴルフ場の橋も造った。こうして少しずつ、実績を築いていった。

陸機部はその後、鉄構事業部と大島工場鉄構部となって組織も充実し、大島と大阪(旧大阪造船所ヤードを借用)で各々製造を行っている。大島の2号岸壁には長さ200メートルの鉄構専用定盤も設けた。
近年は、瀬戸内架橋、大島大橋、女神大橋、高速道路橋等の大型の橋梁物件を次々とこなしている。現在、鉄構関連は全売上げの1割近くを占め、船に次ぐ第2の重要な事業となってきた。
第2設計室の原図場は、その後コンピュータ化によって廃止され、現在は第2事務所として、鉄構部門、大島メインテナンスが利用している。

鉄構部門へは造船部門から移った人も多い。これらの人は船屋から橋屋になって、構造・製造方法の違いに当初は戸惑ったが、今は橋の多様性・芸術性に触れることに喜びを見出しているようである。

多角化の始まり - 陸機部の発足