大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

造船所が多すぎる – 設備の共同処理

昭和48年秋の第1次石油ショックに端を発する造船需要の急減を受けて、造船各社は個別に合理化対策を取ってきたが、過去前例を見ない市況低迷の中で、業界はやむを得ず、協調してこの不況を凌いでいこうという気運になった。
51年11月25日、海運造船合理化審議会(海造審)の答申を受けて運輸省は、造船40社に対し、操業時間数でピーク時比52年度72%(大手67%、中手76%)、53年度67%(大手63%、中手70%)の操業量調整を勧告する。

53年の大不況に際し、業界が最も辛酸をなめた対応は、過剰設備の廃棄問題である。53年11月14日、海造審の答申に基づき、運輸省は5千総トン以上の建造能力を有する造船所61社に対して、船台またはドックの基数単位に平均35%の設備削減を告示する。設備処理率は大手7社が40%、中手17社が30%である。

大島造船所(大島)は1つのドックしかないので、単独の設備処理ではドックを廃棄して造船所を閉鎖する以外に手はない。また、マザーヤードの大阪造船所(大造)も大島造船所新設に対する運輸省の許可条件により、自ら身を削って52年11月に1号船台を廃止し、2号船台のみの単一船台となっていた。
大島、大造の2社でグループ処理を行うには、どちらかの工場を閉鎖せざるを得ず、また住友重機械工業(住重)を含めた処理も実現困難で、苦慮する時期が続いた。

このような時にたまたま、長崎造船所の縮小を検討していた林兼造船(林兼)が大造グループに入ることにより、設備共同処理に活路を見いだす案が出てきた。この案で運輸省当局の了解も得て、関係各社間で諸問題の解決に向けた話し合いが行われた。
その結果、大島、大造、住重、林兼の4社が共同処理を行うことで合意に達し、55年2月26日に設備処理は終結した。林兼長崎造船所の閉鎖を始め、各社で船台・ドック設備の廃止と交換・融通等を行った。
大島造船所は削減率ゼロでドック設備8万総トンをそのまま存続し、閉鎖される林兼長崎造船所から300人の社員を受け入れることになった。

51年11月以来、実施されてきた運輸省勧告による操業規制は、CGRT(188頁の用語解説参照)ベースでピーク時を基準として53年度70%(中手の規制値)であったが、53年12月8日の第3回操業調整勧告の中手規制値は何と54年度・55年度とも45%となった。当社は操業ピーク算定の基準年度48年~50年度が、本格操業に入る前で操業量は少なく、操業量の割当は極めて低い数値に抑えられることになった。
従って、抱え込んだ受注量に対して、慢性的な操業枠の不足に悩み、グループ各社から毎年、割当枠の融通を受けながら操業を続けることになった。
林兼長崎造船所からの人員受入れは辞退者も出て、最終的に65名が大島に入社した。
マザーヤードである大阪造船所の大島に対する強い思いが、グループ各社からの支援・協力の原動力となり、このように当社を無傷で生き残らせたと言える。

運輸省勧告による操業規制は独占禁止法の関係から、半年以上の継続は不可能であり、業界として操業調整策の気運が醸成された。かくして、54年8月1日、不況カルテルが公正取引委員会によって認可されることとなった。

造船所が多すぎる - 設備の共同処理