大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

さらば大島 – 歌で綴る昭和50年代前半の歴史

さらば大島 - 歌で綴る昭和50年代前半の歴史

操業開始の翌年、昭和50年から不況に入り、余剰人員が出て雇用調整が始まる。社内に大きな動揺が走った。寄せ集めの社員の気持ちをまとめるのに苦労した。そこで、社員の心を一つにするために生まれたのが、数々の替え歌である。

まず、「同期の桜」の替え歌「大島桜」が作られた。各職場の仲間が、離島開発総合センターの横にあった桜町会館に集まり、魚ものを「進水鍋」、肉ものを「大造鍋」と名付けた鍋物料理をつつきながら、一杯飲んで気持ちをまとめた。その席での最後の歌が「大島桜」であった。全社一丸に効果を発揮した。

「ラバウル小唄」の替え歌は「さらば大島」である。
会社をやめて船で島を離れていく人をこの歌で送った。送られる方も悲しいが、送る方も「今日もまた、同僚が去っていった」と本当に寂しく、悲しい思いをしながら、桟橋から足をぞろぞろ引きずって会社に戻った。

会社全体に沈滞ムードが漂ってきたので、元気を出そうということになり「お座敷小唄」の替え歌「大造小唄」が生まれた。
最後の歌詞は「好きで好きで大好きで、死ぬほど好きな大造でも、不況という字にゃ、勝てやせぬ、泣いて忍んで、頑張ろう」である。「俺たち、やる気はある。しかし、船の注文が来なかったら、造りようがないやないか。辛抱するしか、しゃあないやないか」という歌だった。
不景気なときに、何とか生きていこうと「ここに幸あり」も歌った。
その他、皆の気持ちを少しでも鼓舞しようと、「感謝節」(「兵隊さんよ有難う」の替え歌)なども作られた。

これらの歌詞をみると、「歌は世につれ、世は歌につれ」と言われるように、当時の情景をよく写している。草創期の楽しい思い出というより、どちらかというと苦い思い出である。「『さらば大島』は別れの歌ではあるが、送る側の歌であって、送られる方の気持ちを無視している」と言われ、シュンとなった。
また、「『大島桜』は『同期の桜』の替え歌で『負け戦』の歌である。前向きの『勝ち戦』の歌に替えようや」ということで、だんだん歌われなくなった。
唯一、明るく元気のいい「感謝節」だけは、現在でも命名引渡式の前夜祭の時に、歌詞を変え、船主さんへの感謝の意を込めて「正調感謝節」として歌っている。
替え歌を創る当社の伝統は、その後も受け継がれ、社内行事の度に、その当時の実情を取り入れた数々の歌が生まれている。

さらば大島 - 歌で綴る昭和50年代前半の歴史