大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

輸出船のクレームに困惑 – クレーム処理に奔走

輸出船のクレームに困惑 - クレーム処理に奔走

大島造船所は、14~17番船の27型バルクキャリア(27BC)4隻をバティスより、18~20番船の16型ゼネラルカーゴ・シップ(16GC)3隻をダイファスより、26番船の16GCをラッシーより受注した。これらは何れも円建て契約で、納期は昭和52年から53年である。

52年から53年にかけては、円高が進行し、海運マーケットが低迷した。船主は円建て契約による為替差損と海運需要の減少というダブルパンチを受けた。
このような状況を背景に、52年7月19日、ダイファスより日商岩井経由で18~20番船シリーズの値引き要請またはキャンセルの話が出た。困り果てた当社は、交渉を重ねた末、著しい低船価ではあったが、最終的には値引きすることで合意に達した。

ダイファスについては、これで一件落着と思いきや、これだけでは収まらなかった。
53年1月の19番船の引渡直前、ダイファスから前年11月引渡済みの18番船が航行中、異常に振動するとクレームがついた。これを受け、南尚所長をはじめとする交渉団が、振動防止の改善策を持って、2月13日、ギリシャのピレウスに出向き、交渉を重ねた。

交渉では、振動問題に起因する困難な問題が次々に出されるため、遅々として解決への糸口が掴めない。先方は裁判所を通して、大島で建造中の他船主の船に対して仮差押えという挙にも出て来た。当方は直ちに異議申立てを行い、供託金を積んで、仮差押えを解除した。

3ヶ月半にも及ぶ血の滲むような交渉であった。結局、再度、シリーズ船3隻で大幅な値引きをして決着を図ることになり、53年5月30日、正式に和議調印を行った。同型船のラッシーの1隻もダイファスの1隻当たり値引き額に迫る値引きをした。

一方、14~17番船シリーズの船主バティスからは、54年1月24日、為替の動きを承知して円建て契約をしたと訴えられた。先方の要求は、16番船の円建て70%、7年の延払い契約を値引きすることとドル建てへの変更等である。これらのシリーズ船は、全て52年7月までには、引渡しを終え、保証期間も過ぎていた。
この裁判も難航したが、57年2月に至り、ニューヨーク米連邦裁判所から当方の主張通り仲裁裁定が下り、勝訴となった。

バティスのシリーズ船は、51年4月~52年7月の建造中においても、船主監督から、当社としては納得のいかない、塗装を主とした数々のクレームがあり、工程は大きな混乱に陥った。これを教訓として、室内で塗装施工するため、第2集配工場を塗装工場に改装した。これが当社の塗装工場の第1号である。現在では、5棟13室の塗装工場を備えるまでになり、塗装品質の一層の向上を図っている。

昭和54年秋からは、海運マーケットが回復し、56年~58年の3年間は造船ミニブームと呼ばれた。この期間、サザンスターから受注した61、62番船の60BC、66~69番船の37BCの計6隻も建造を進めていたが、ミニブーム最中の57年の夏頃からは海運マーケットは再び、悪化の兆しを見せはじめ、またもやクレーム問題が発生した。

57年11月の61番船の内試で、振動問題が発生したため、直ちに対策を講じ、補強工事を施した。サザンスターは、振動対策には一定の理解を示したものの、積荷がないため、引渡し延期、値引き等の要求を持ち出してきた。
58年2月には、土井社長、南尚専務がニューヨークへ飛び、サザンスターのクーマンタロス社長とのトップ交渉を行った。その後の数次に亘る困難な折衝を重ねて、やむなく、6隻一括の値引きで合意した。値引きせざるを得なかったものの、クーマンタロス氏は当社にとって重要な顧客で、大島町への貢献も大きい。そこで58年9月23日の68番船の命名引渡式では、町と当社が大島町の「ゴールデンキー」を贈呈した。このキーは大島町の「名誉町民」として感謝の意を表すものである。

大島造船所は、これらのクレーム処理に忙殺された。
特にダイファスシリーズのマーケットクレームは、当社にとって手痛い打撃であった。
泣きっ面に蜂、不況による業績悪化に追い打ちをかけられた。
対船主との問題、設計上の問題、船級協会対策等々、あまりにも高い授業料であった。

輸出船のクレームに困惑 - クレーム処理に奔走

輸出船のクレームに困惑 - クレーム処理に奔走