大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

造船バブルがはじけた – タンカーのキャンセル

タンカーブームに乗った日本の造船各社の新鋭大型造船所は次々と超大型タンカーを造りだした。昭和48年の日本の造船受注量は、前年度比57%増とかつてない膨大な量となる。タンカーは投機取引の対象になり、既に過剰気味になっていた。
このような時、48年10月、第1次石油ショックが世界を襲った。石油価格が高騰し、世界経済は不況とインフレーションに突入する。日本経済も49年、戦後初のマイナス成長を余儀なくされた。
こうした背景によって、石油輸送の需要は低迷し、タンカーの膨大な余剰が生じた。
日本の造船各社は、2年から3年分の受注残を抱えていたが、50年に入ると、受注済みの船のキャンセルが相次ぎ、新規受注案件もほとんど無いような状態になった。

石油ショックで造船バブルがはじける。
山高ければ谷深し。か細い受注案件に各社が群がる。
船価は当然のごとく、下がっていく。それに円高が輪をかける。
造船業界は、昭和50年から54年までの未曾有の不況に突入しようとしていた。
1番船の進水の時に、南尚所長が述べたことが、いよいよ現実になってきた。

大島造船所は、1~4番船の89型タンカーを4隻、5~12番船の138型タンカーを8隻、受注または内定していたが、50年8月までに6~12番船の138型タンカー7隻が次々にキャンセルされた。キャンセルされた7隻のうち8番船、10番船は消滅したが、6番船、12番船は33型バルクキャリア、7番船、9番船は32型カーバルクキャリア、11番船は55型タンカーに船型変更された。船主も入れ替わり、6、12、9、11番船の船主はワーコンとなった。
この船型変更のため操業量が一気に減少し、大幅な人員余剰が出て、操業計画を抜本的に見直す事態に追い込まれた。
日本で最後にできた大型造船所である大島造船所は、まだ本格操業する前に不況の波に翻弄されることになった。

50年4月から断続的に従業員が大島を去っていった。その中には大島造船所に見切りをつけた人もいれば、止むなく去って行った人もいる。
53年に入ると、操業量は憂慮すべき状態となり、3月、組合との間に「自立懇談会」を設けて合理化の協議を行った。
「勇退者特別措置」を発表し、45歳以上の勇退者募集に踏み切った。
更に7月、8月には賃金カットと労働時間延長が行われた。
これらの合理化事項は2回に亘って延長され、完全復元は56年8月まで掛かることとなる。
54年10月までに、多くの悲しみや涙の中で、社員・協力社員合わせて1,804名中1,009名もの人が大島を去っていった。

造船バブルがはじけた - タンカーのキャンセル