大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

住宅用地がない – 住宅用地の確保に苦労

住宅用地がない - 住宅用地の確保に苦労

社員の住宅用地の確保については、県・町の受入れ側および松島興産(昭和48年、松島炭鉱㈱が松島興産㈱と商号変更し、生産部門が松島炭鉱㈱として分離独立)との折衝である程度の成果を得たが、それ以上はなかなか進展しなかった。
大島町中央地区周辺の住宅用地は今の中央団地20,460㎡、寮6,930㎡を含めて、合計41,828㎡を飛び地で取得できたとはいえ、それだけでは足りなかった。
町から全面的な協力が得られることを期待していたが、残念ながら大きく見込みがはずれた。大島での工場建設に当たり、工場用地は進出条件に入れるが、住宅用地については進出後に話し合うということにしていた。ところが、実際に用地の取得で難航するとは、思いもよらないことであった。

住宅問題が宅地の確保という点で暗礁に乗り上げたのは、折しも新造船所の建設が軌道に乗りだした頃のことである。大島町内の住宅適地について町当局と種々交渉を重ね、調査を行ったが、難点があったり、所有者の同意が得られなかったりで、宅地の確保は遅々として進まない。
昭和51年以降、138型タンカー7隻建造体制の人員計画では、既確保分に加え、新たに中央地区に匹敵する住宅用地を必要とした。

このような時、内浦地区の農地および山林の丘陵地帯約23万㎡の造成案が持ち上る。この用地は造船所裏の山手にあり、宅地としては多少不便であるが、まとまった広大な土地であることが何にも増しての利点である。
そこで、この丘陵地帯を買収することとし、町当局の協力を得て黒瀬地区の所有者と精力的な交渉を重ね、235,290㎡の売買契約が完了したのが、工場操業開始直後の昭和49年6月末のことだった。

用地内の農地66,887㎡を宅地へ地目変更するにあたっては、県知事認可を受けるために、農地法の手続上、用地を3分割し、それぞれ別々の会社3社で申請を行うこととした。3社は、大島造船所と子会社の大島ヤードサービス、および、このために新たに設立された内浦開発である。
また、地域社会との兼ね合いから西海町・崎戸町における宅地の確保が必要となり、まず、西海町木場地区の山林、64,062㎡を49年6月末に取得した。崎戸町についても候補地が提示されたが、適当な場所が見あたらず断念することとなった。

建設本部要員および早期赴任者用の宿舎としては、松島興産所有の南町寮・桜町会館などを借りていた。中央地区の社宅建設はセメントなどの資材不足に悩まされながらも、操業前の社員の入居に何とか間に合った。中央地区の不足分は、工場埋立て用の土取り場跡地である内浦丘陵の端、馬刀ヶ浦に社宅を建て、当座をしのいだ。
寮は5階と6階建ての5棟、287室。当時としては、島内はもちろん西彼杵近郊にも例を見ない立派な建物で、49年9月完成時に「青雲寮」と名付けられた。島内にエレベータを設置した建物がなかったので、竣工間もない頃は、近所の子供たちがエレベータに乗ろうと大勢遊びに来ていた。

51年度末には、人員2,700人になると計画し、窮余の策として、内浦地区の丘陵地を住宅用地として取得・造成したが、操業直後の造船不況で不要になり、造成地には、草が生い茂る荒れ地となった。しかし、この広大な土地が後になって、トマト栽培の用地として、大いに役に立つとは、誰が予想しただろうか。
一方、西海町木場地区の山林は、開発されることなくそのままになっていたが、平成4年、大島造船所から西海町に無償で譲渡された。その後、譲渡された木場地区の土地には、「西海町スポーツガーデン」として、広々としたグラウンド、体育館、テニスコートなど種々の施設が建てられ、周りには店舗なども開店して、西海町のコミュニティーセンターとなりつつある。

住宅用地がない - 住宅用地の確保に苦労