大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

将来を見越した骨太な建設計画 – 未来志向の荒削りな工場が後の躍進の原動力

将来を見越した骨太な建設計画 - 未来志向の荒削りな工場が後の躍進の原動力

大島進出決定の昭和47年当時、大阪造船所は33型バルクキャリア(33BC)を年間9隻建造していた。工場は大阪市港区の尻無川河口に位置し、敷地面積12.5万㎡であったが、33BCを9隻造るには余りにも狭すぎた。進水直前には、溜まったブロックが溢れ、窮余の一策でブロックを積み重ねたり、借りてきたバージに載せたりして凌いだ。社員は皆、もう少し広い場所があればと願っていた。

大島進出が決まった時、基本方針としてタンカーの建造を目的とすることを決定した。 その時の南景樹社長の考え方は、「無限の可能性を秘めた何も建ってない敷地に、設備を建設することは、無限の可能性を縮小していくことである。しかし、そうしながらもなお、できる限りの可能性を残していく」というものであった。

その根底には、次のような思想が流れていた。
中小企業が工場を建設する場合、そこで50年、60年食っていかなければならない。大手のように第二工場、第三工場というわけにはいかない。
50年、60年という先を思い描かなければならない。それが可能性をできるだけ残すということである。
また、大阪造船所が単独で、大阪工場の延長線上で工場を建設するならば、おそらく、効率を優先した造船所を造るという考えが主眼になるであろう。
大手企業と提携することによって、将来を見越した骨太な建設、即ち、将来を見据えて変化に対応する可能性を残すという理想を貫くことができるのである。

南景樹社長は工場建設を担当する建設本部に下記の方針を出した。
①敷地は広く取れ。余剰スペースは敷地の真ん中に造れ。
②ドックサイズは大きく。そしてドックサイドと渠頭に十分なスペースを取れ。
③建屋は、独立分離方式で可能な限り高くせよ。
その結果、
①大阪造船所の6倍の広い敷地を確保した。レイアウトは、将来の拡張の余地を敷地中央部に確保し、建造工程の流れをシンプルにした。
②ドックは535m×80mの大型ドックになった。そしてドックサイドはもとより渠頭部にも広大な総組ヤードを確保した。
③建屋はタンカーだけではなく、どのような船種にも対応できるように独立分離方式を採用した。また将来の建造方法の変化を考慮し、高い建屋にした。

将来の発展余地を十分過ぎるほど残した新工場の計画は、当時としては余りにも荒削りで未来志向であった。狭い日本で箱庭のように建屋が整然と隙間無く配置されている工場を見慣れている目には、茫漠とした無駄の多い工場に見えた。
しかし、この茫漠たる工場が後になって、大島造船所躍進の原動力となるのである。

将来を見越した骨太な建設計画 - 未来志向の荒削りな工場が後の躍進の原動力