大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

やっとの思いで決定 – 大島町への進出

やっとの思いで決定 - 大島町への進出

第一次、第二次の調査を踏まえて、プロローグで述べた南景樹社長一行の大島町での現地視察が行われた。南社長は視察翌日の昭和46年7月15日に久保長崎県知事を表敬訪問した。
「大島は現地を拝見すると、造船立地としては誠に結構です。炭鉱閉山の町ということですが、人々は人情に厚く、整備すれば綺麗になりそうな住環境の基盤があります。進出候補地として大島町以外は考えていません。ただし、色々詰めなければならない問題が多いので正式決定は今秋になります」と伝えた。

南社長が久保知事を訪ねた日から、1カ月後の8月15日、突然、ニクソン米大統領が金・ドル交換停止のドル防衛策を発表した。いわゆるニクソンショックである。戦後の国際通貨制度、ブレトンウッズ体制は崩壊し、1ドル=360円の固定相場制が変動相場制へ移行することとなった。産業界には、計り知れない衝撃が走った。円相場の落ち着く先は皆目見当もつかず、日本経済の行く手には、暗雲が覆い被さってきた。

ドル建て契約を常とする造船業界は、多額の為替差損を被ることが想定され、受注の新規成約も皆無の状態になった。このような中、大阪造船所も前途壮大、希望に満ちた新造船所建設のプロジェクトを、延期せざるを得なくなったのである。

12月20日に、スミソニアン協定(先進10カ国蔵相会議)により、円は1ドル=308円に切り上げられ、大阪造船所は、130億円の為替差損を被ることとなった。
しかし、47年に入ると、スミソニアン協定によって円相場は安定し、産業界は再び活況を呈し始める。造船業界にも、輸出船の受注回復の兆しが見られたので、大島プロジェクトを再開することとなった。

47年3月13日、南社長は久保知事を訪ね、大島町進出の正式決定と、運輸省に許可申請書を提出する旨を伝えた。久保知事は、直ちに記者会見を行い、このことを発表した。 この時、大島では町議会開会中であったが、宮崎町長はこの報せを受けると直ぐさま、議会に報告した。この朗報に、張りつめていた議場が瞬く間に明るい雰囲気になり、報告が終わるや喜びの声と拍手が湧き起こった。
町は号外を発行し、広く町民に知らせた。待ちに待った進出決定の報せだけに、地元の歓迎ぶりは大変なものであった。
県は知事を会長とする「大阪造船建設促進協議会」、副知事を本部長とする「大阪造船建設対策本部」を設置し、受入れに対して全面支援の体制を敷いた。
また、町では「企業開発室」を新設し、秋山新助役が室長を兼任して、受入れに総力をあげて対応した。

当時、大島町は大島の人がよく働くことをアピールするために、精鋭27名を大阪造船所に派遣していた。進出決定の報せに彼らは跳び上がって喜び、宿泊していた寮から、家族や町の関係者に、入れ替わり立ち替わり感激の男泣きの電話を入れた。この27名は誘致大使としての役割を果たした満足感と大島の家族のもとに帰れる喜びに浸り、その夜は一睡もしなかった。

やっとの思いで決定 - 大島町への進出