大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

炭鉱閉山、町の死活問題解消へ – 大島町の企業誘致活動

炭鉱閉山、町の死活問題解消へ - 大島町の企業誘致活動

「大島町の造船工場予定地は、ボタの埋め立て地ではあるがその下には岩盤があり、水深、炭鉱の電力設備など造船業にはうってつけの場所です」「しかも、海老や鯛や鮑が土手に上がって昼寝をしています。魚を釣ろうと思えば、紙に鯛と書いて釣り針にかければ鯛が釣れるし、海老と書けば海老が釣れます。大島はいいところです。是非来てください」と大阪で誘致活動をしていた大島町の秋山企画室長は、真顔で語った。
大島町は、造船所の誘致のため、熱心に活動した。宮崎町長自ら、昭和46年1月、3月、5月と3度に亘って大阪造船所を訪ねた。訪問の都度、新鮮な海の幸をたくさん持参した。

大島町は、松島炭鉱大島鉱業所により炭鉱の町として栄えたが、45年5月30日、大島鉱業所が閉山した。炭鉱で働いていた3,000人が職を失った。一挙に過疎化が進んでいった。町は過疎化を止めるため、炭鉱に代わる中核となる企業の誘致を最優先課題に掲げて、早速、活動を始める。
45年7月、町は活動の拠点を大阪に置いた。当時、大阪は「万博」で沸きかえっていた。アポロ宇宙船が持ち帰った「月の石」が展示されているアメリカ館には、3時間待ちの長蛇の列ができていた。
その賑わいを横目に、秋山室長は大阪中を歩き回る。
人の働ける企業であれば何でもよいという気持ちで必死に探したが、何も成果があがらない。

この時、山口百恵の「ひと夏の経験」という歌がヒットしていたが、秋山室長の「ひと夏の経験」から、町は無目的で回っても無駄と覚った。
そこで東京の有名なコンサルタントの知恵を借り、誘致する企業としては、大島町の特性から、臨海型、非用水型、非日常出荷型(*)、非公害型でしかも労働集約型である造船業に的が絞られた。
(*)日常出荷型とは、製品を日常的に出荷する企業の型。離島である大島の交通事情からこの型は立地に不適。

この年の10月から、秋山室長は再び大阪で活動を始める。そして、長崎県大阪事務所の企業誘致担当課長の仲介で、在阪の或る造船所に対して、熱心に誘致活動を行った。年が明けて46年1月21日もその造船所を訪ねるが、色好い返事はない。
その帰りに、進退窮まった秋山室長がたまたま大阪造船所を訪ねた。その折、大阪造船所が新造船所建設を計画しており、大島が誘致に来た7番目であり、工場用地については最終決定段階になっていることを知ることとなった。早速、宮崎町長が大阪造船所を訪ね、大島町進出を正式に要請した。
また、町は県に状況を報告した。その時、久保知事は「大阪造船所は長崎県の或る企業が苦況に立った時、保証などを行い、復活に尽力した会社だ。南さんのところなら非常にいい」と語り、県・町挙げての誘致活動となった。

炭鉱閉山、町の死活問題解消へ - 大島町の企業誘致活動