大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

新天地を求めて – 新工場建設の発表

造船業界は、戦後の荒廃期・混乱期も過ぎた昭和28年から29年にかけて、朝鮮戦争後の深刻な不況に見舞われたが、30年からは建造量が上向き、30年代半ば以降は、高度経済成長の波に乗り、拡大発展していった。31年には、早くもイギリスを抜いて建造量世界一になった。恐るべき勢いであった。

昭和11年に南景樹の父、南俊二が大阪の尻無川の河口、福崎の地に創業した大阪造船所も戦後の荒波を乗り越え、30年以降は順調に発展していった。
40年代には、設備能力を拡大しながら、大阪造船所の代表的建造船型であるバルクキャリアを18、24、33型へと漸次、大型化させていく。しかし、狭い敷地による制約から、船型の大型化、建造量の拡大にも自ずと限界が見えてきた。

そのような状況下、大阪造船所2代目社長・南景樹は、昭和45年の年頭挨拶で、大阪造船所の企業基盤確立と将来の発展に備え、かねてより温めていた大型船需要に対応できる、効率的な設備を有する大規模な新鋭造船所の建設を表明する。
それに前後して、内々に工場適地を求めて調査が始められた。当時、候補地としては、数カ所が挙がっていた。
造船所には、水深がある海に面した、地盤のしっかりした広大な土地が必要である。また、電力・道路等の産業基盤、市場・学校・病院等の従業員(*)の生活基盤、他の造船所の位置、海象・気象といった条件が揃わなければならない。造船適地を探すため、いろいろと検討が重ねられた。
(*)社員と協力会社社員を合わせて従業員と呼ぶ

昭和40年代半ば、高度経済成長の波は更に大きなうねりとなり、経済界を有頂天にさせた。10年後には、粗鋼生産も倍に近い1億5千万トンに達する。原油輸入も3億キロリットルを越えるだろうなどと喧伝され、産業界の設備増強になお一層、拍車がかかった。
造船業界もまた、競って超大型タンカー(VLCC)が建造可能な大型ドック建設に奔走した。中手造船各社も乗り遅れまいとタンカー建造用の大型ドック建設を計画したが、運輸省は、46年8月のニクソンショック後の建造能力調整問題もあり、大手造船会社との提携を指導していた。そのような状況下、大阪造船所は新工場建設に際して、大手造船会社との資本提携を許可条件として示された。

45年4月、日本造船工業会が欧米造船使節団を派遣した際に、南景樹社長は、一緒に参加した住友重機械工業の土井正三常務(45年11月、専務就任)と親しくなった。
46年2月、この2人に住友商事の池田彦二部長も加わった会食の場で、大阪造船所と住友重機械工業との提携が取り上げられた。大阪造船所は新造船所建設のため、住友重機械工業は業界内のシェア拡大のため、住友商事は船舶営業を伸ばすため、それぞれが提携先を模索していたところでもあり、この話はとんとん拍子に進んでいった。

新天地を求めて - 新工場建設の発表