大島造船所物語
Oshima Shipyard Story

明るく、強く、面白く。
地域と共に歩んできた大島造船所の物語。

1.プロローグ – 創業者南景樹の大島視察

1.プロローグ - 創業者南景樹の大島視察

昭和46年7月14日、佐世保港を出航したフェリーは、梅雨明けの炎暑の太陽が照りつける海を約1時間走り続け、午前10時頃、肥前大島・馬込港に接岸した。船には造船適地を見極めに来た一行が乗っており、岸壁には町長始め大島町関係者が盛大に出迎えていた。

一行は大島に上陸し、大島町関係者とともにボタの埋め立て地へと向かった。
埋め立て地には、手前に百軒くらいの炭鉱住宅が建っていて、その向こうには夏草も生えていない黒褐色の荒漠たる地面が拡がり、海へと続いていた。山手には、埋め立てによって正面を遮られ、脇の水路で海につながる入り江があった。
入り江の淵まで行くと、ビクに黒鯛2匹を入れ、のんびりと糸を垂れる年老いた釣り人に出会った。入り江の奥には鬱蒼と繁る原生林の山がある。樹木の緑の濃淡でモザイク模様になった山、その山の緑を映す入り江の水面、それらの美しい景色に一行は魅せられた。

船の一行は、大阪造船所の南景樹社長、住友重機械工業の土井正三専務、住友商事の池田彦二船舶部長達で、大阪造船所の新造船所候補地を視察するために大島を訪ねたところであった。 この埋め立て地はボタの下が岩盤になっているため、重量構造物の建設にも耐え得るようであり、岸に近い海の水深も大型船舶を係留するのに充分と思われた。
埋め立て地から町へと向かう、整備された立派な舗装道路は、かつて炭鉱の町として栄えていたことを物語っていた。しかし、人の往来は少ない。住人のいない炭鉱住宅が、道の両側にビッシリと並び、炭鉱時代の栄華と閉山の暗い陰が交錯していた。また、長年に亘って築きあげられた炭鉱の文化が色濃く残っているのが感じられた。

一行は炭鉱時代、迎賓用に使われていた山光荘という旅館に案内され、背中に苔むした今までに見たこともない大きな伊勢エビの活き作りに舌鼓を打つ。賑やかな談笑がしばらく続く。

「どうでっしゃろ、あの入り江の所に3人で別荘を建てませんか。空気も魚も美味いし」と南社長の明るい言葉に、元気のよい土井専務の声が返ってくる。
「私もあそこの景色、気に入りました。池田さんもどないです。あゝ、今年のパリ祭(*)は忘れられないなぁ」 池田部長は、相槌は打つものの、一抹の不安を感じる。
(*)7月14日のフランス革命記念日を日本でパリ祭と呼ぶ

大島町には、炭鉱時代に整備された電力、生活基盤などのインフラはあるものの、日本の西の果て、それも島というハンディがあり、資材の運搬、従業員の確保と生活(住宅・病院・教育・市場)等検討すべき事項もたくさんある。それにもかかわらず、一行はこの造船所立地の候補地に一応、好印象を持ち大島を後にする。その時、1カ月後に迫り来るニクソンショックを知る由もなかった。
あれから32年の月日が流れた。大島造船所は昭和48年2月7日、この地に創業し、30年の時を経た。前半は、時代の激流に翻弄され続けた15年と言えるだろう。
後半15年は、その教訓を活かし、前半の苦労をバネに全社一丸となって船造りに励み、経営を安定させた。
視察団一行のうち、創業者で初代社長・南景樹、2代目社長・土井正三の2人は今日の隆盛を見ることなく旅立ち、この世にはいない。
2人が語り合った入り江の一角には、その後、別荘の代わりに造船業に不可欠な施設としてホテルが建てられた。大島アイランドホテルと名付けられたそのホテルには現在、造船所のお客様や大勢のリゾートのお客様が宿泊し、2人が魅せられた入り江の景色を堪能している。

1.プロローグ - 創業者南景樹の大島視察